Rudolf Escher and Dutch 20th-Century Music
水谷晨
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シドニー・ツィンマーマン-エッシャー氏に捧ぐ
To SIdonie Zimmerman-Escher
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目次
目次 3
序章 4
第1章 オランダ20世紀音楽史概要 6
第1節 19世紀末オランダにおける政治状況及び第1世代の台頭 6
第2節 ウィレム・パイパーと両世界大戦下のオランダ楽壇 9
第3節 フェルムーレン事件と世代の交錯 13
第4節 ウィレム・パイパーの弟子世代たちの動向 14
第5節 ファン・バーレンと第三世代の作曲家たち 17
第2章 ルドルフ・エッシャーの生涯とその書法 20
第1節 エッシャーの幼少期から1940年代まで 20
第2節 エッシャーの戦時中、戦後の作曲姿勢 21
第3節 音楽学者としてのエッシャーと50-60年代 36
第4節 後期エッシャーとセリエリズムとの葛藤 41
第5節 エッシャーの旋法書法とセリエリズムの止揚 46
第3章 ルドルフ・エッシャー研究の現代的意義 57
オランダの光――終わりにかえて―― 59
【参考文献一覧】 60
【使用楽譜】 63
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序章
「オランダの光 Hollands licht 」という、ペーテル-リム・デ・クローン Pieter-Rim de Kroon (1955–)監督による映画がある。ヨハネス・フェルメール Johannes Vermeer (1632–1675)やレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijn(1606–1669)の絵画を育んだ「オランダの光」についてのドキュメンタリー作品だ。この作品には、現代の芸術家、美術史家だけでなく、気象物理学者、果てはヨーロッパ中を旅するトラック・ドライバーに至るまでの諸インタビューが収録されている。フェルメールやレンブラントの絵画に見いだされるオランダの独特の光、それは単なる絵画の技法によるものなのか、または実在するものなのか。ドイツの現代芸術家、ヨーゼフ・ハインリヒ・ボイス Joseph Heinrich Beuys (1921–1986)によると、その光は20世紀半ばに元来の透明さを失ったという。ボイスは1979年頃に次の様な発言をしていると、この映画の中で述べられている。つまり「エイセル湖の干拓によって、オランダの光が消えつつある。」とである。美術家のヤン・アンドリ―ッセ Jan Andriesse (1950–2021)は、ボイスがドイツ人智学的な彼特有の視点で湖を眺め、エイセル湖をオランダの「目」とみなしたと語る。
筆者は、かつてオランダ留学時代に、実際に「オランダの光」を目にした。晩夏の早朝のロッテルダム駅を出た辺りであった記憶がある。確かに、「オランダの光」は実在するのだ。
そして本論文で問いたいのは、音楽における「オランダの光」の存在だ。筆者は、それをオランダ20世紀の作曲家ルドルフ・エッシャーの包括的研究によって明らかにしてみたい。なぜ今、エッシャーなのか。その結論は、第3章において述べられている。本論文の主目的は純粋に音楽史的、また作曲諸技法の包括的かつミクロな分析であるが、最終章ではカール・マルクス Karl Marx(1818-1883)の唯物史観に則り、よりマクロな視点、つまり資本制生産様式の時代における作曲家の生き方について、結論づけたいと考える。よって本論文は先ず、20世紀オランダ音楽史を包括的に取り扱い、次にエッシャーの生涯と彼の代表的諸作品の分析へと移る。本論文において、書式は日本音楽学会の引用形式に準じるが、西原稔名誉教授の指導の元で一部、脚注の形式を変更している。また、本論文で主に取り扱うエッシャー以外の作品においては、作品番号の表記を一部省略している事を読者諸兄にお断りしておきたい。
1 IMAGICA. REVT-00147. 2008.
2 Ibid.
3 Ibid.
4 Ibid.
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以下より、論述を始める。
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第1章 オランダ20世紀音楽史概要
本章では、オランダ20世紀の作曲家たちを3つの時代区分に分類し、20世紀のオランダ音楽を体系化する事を目的とする。まず第1世代としてはアルフォンス・ヨナネス・マリア・ディーペンブロック Alphonsus Johannes Maria Diepenbrock (1862–1921)とほぼ同世代の作曲家たちを扱い、第2世代としては、オランダ楽壇における教育者としても著名な作曲家ウィレム・フレデリック・ヨハネス・パイパー Willem Frederik Johannes Pijper (1894–1947)の弟子たちを扱う。なお、本論文の主題であるルドルフ・ジョージ・エッシャー Rudolf George Escher (1912–1980)もここに属する。第3世代としてはトン・デ・レーウ Ton de Leeuw(アントニウス・ヴィルヘルムス・アドリアヌス・デ・レーウ Antonius Wilhelmus Adrianus de Leeuw) (1926–1996)以降の作曲家が挙げられるが、トン・デ・レーウを含めたエッシャー以後の諸作曲家において本論文では簡略的に総括するに留める。
第1節 19世紀末オランダにおける政治状況及び第1世代の台頭
ヨーロッパの北西部、北海に面した現在のオランダ王国を含む低地地方は、16世紀に主にアジアおよびカリブ海諸島などとの交易で急速に発展した地域である。1815年のウィーン会議によってフランス帝国から独立した現在のベルギー王国、ルクセンブルク大公国を含むネーデルラント連合王国はオランダ領東インドの植民地搾取を背景に産業革命を推し進めた。その富は芸術音楽の分野にも果実をもたらし、1826年には国王ウィレム1世 Willem Frederik (1772–1843)がデン・ハーグにおいてハーグ王立音楽学校 Koninklijke Muziekschool をヨハン・リュベック Johann Lübeck (1799–1865)を校長として設立し、オランダにおける音楽教育を推進した。またそれと並行する形で他の音楽教育機関もユトレヒト、アムステルダムなどの他のオランダ諸都市に開設されている。
1848年、革命がヨーロッパ各地で勃発すると、オランダにおいても市民階級が政治的に台頭しはじめる。オランダにおいても市民階級への新たな音楽への需要と相まって、1888年にはアムス
1 IMAGICA. REVT-00147. 2008.
2 Ibid.
3 Ibid.
4 Ibid.
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