後期資本主義社会における『前衛音楽』の在り方に対する小論

A Treatise on the Condition of ‘Avant-Garde Music’ in Late Capitalist Society

◆はじめに——問題設定と本稿の目標

 本稿の中心的問いは、資本主義社会において前衛音楽がいかなる批評的機能を持続しうるのか、という点にある。20世紀前半に展開された前衛音楽の多くが、現在では教育機関、文化財団、公共助成といった制度的枠組みに取り込まれ、その革新的・政治的性格を希薄化させているという現実がある。しかし、この事実をもって前衛音楽の可能性を全面的に否定することは適切ではない。

 本論では、制度内部における微細な実践を通じて、前衛音楽がなおも批評的機能を持続させることが可能であると論じる。その核心的条件は、資本主義との批判的距離を保ちながら、「聴取そのもの」を問い直す実践にある。本稿では、聴取の根源的問い直しこそが前衛音楽の持続的な批評性の源泉であることを明らかにする。ただし、本論考自体が学術制度内で執筆されており、理論的言説という高度に制度化された形式を採用していることを自覚的に認識する必要がある。本稿は、この矛盾から逃れることを目指すのではなく、むしろそれを意識的に引き受けることで、「戦略的距離」の実践そのものを例証しようとする試みである。

 本稿の論証は以下の構成をとる。第一に、前衛概念の歴史的変遷と制度化への軌跡を追跡する。第二に、制度内批評の理論的可能性を検討し、前衛性持続の条件を抽出する。第三に、ピエール・アンリ・マリー・シェフェール Pierre Henri Marie Schaeffer (1910–1995) とカールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen (1928–2007) の実践を分析し、「聴取の問い直し」という批評的実践の可能性を実証する。第四に、制度の地政学的問題を視野に入れ、非中心的前衛の可能性を探る。第五に、感覚の政治学という観点から、制度化を逃れる感覚の場の生成について考察する。

◆「制度」概念の理論的定義

 本論を展開するにあたり、中心概念である「制度 institution」および「制度化 institutionalization」について、その理論的射程を明確にしておく必要がある。本稿における「制度」は、単一の意味内容に還元されない複合的な概念として理解される。

 第一に、制度とは物質的・組織的基盤を指す。芸術大学、音楽院、コンサートホール、音楽祭、助成財団、レコード会社、配信プラットフォーム、批評メディアなど、音楽の生産・流通・受容を可能にする物理的・経済的インフラストラクチャーである。これらは資本主義経済システムに深く組み込まれており、音楽実践の物質的条件を規定する。

 第二に、制度とは象徴的・認識論的枠組みを意味する。「何が音楽か」「何が芸術的価値を持つか」「誰が作曲家として認められるか」といった判断基準は、制度的承認のメカニズムを通じて社会的に構築される。音楽大学の教授陣が定めるカリキュラム、批評家が用いる評価言語、音楽祭が選定する作品——これらすべてが、何を「音楽」と見なすかの境界線を引いている。例えば「前衛音楽」というカテゴリー自体が、制度によって構築された分類であり、そこには特定の美学的価値観と歴史観が埋め込まれている。

 第三に、制度とは聴取と感覚の編成原理である。制度は単に音楽を管理するのではなく、聴取主体そのものを生産する装置として機能する。何を「音楽的」と感受し、何を「雑音」として排除するか、どのような時間感覚で音楽を経験するか——これらは制度によって形成された知覚の様式である。演奏会場における静粛の規範、楽章間の拍手の禁止、録音における編集の慣習——これらはすべて、特定の聴取様式を強制する制度的規律である。

 第四に、制度とは歴史的に形成された権力関係を体現する。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリー自体が、西洋中心主義的な文化ヒエラルキーを前提としている。これらの用語は中立的な分類ではなく、特定の地域(西ヨーロッパ)の音楽実践を普遍的規範として位置づけ、他の地域の音楽を「民族音楽」「伝統音楽」として周縁化する権力装置である。

 本稿における「制度化」とは、これら四つの次元における包摂のプロセスを指す。具体的には、(1)かつて周縁的・実験的であった音楽実践が公式化されること、(2)前衛的語彙が学術的分析において定型化されること、(3)逸脱的な聴取様式が規範化されること、(4)非西洋的実践が西洋的制度内に配置されること、である。

 重要なのは、この制度化が必ずしも悪意ある抑圧ではなく、むしろ「承認」「保存」「教育」という善意の実践を通じて進行することである。音楽大学が前衛音楽を教えることは、その保存と継承に貢献する。しかし同時に、前衛音楽を「教えうるもの」として定型化し、その批評的鋭さを鈍化させる。後期資本主義は対抗的実践を排除するのではなく、それを取り込み、差異そのものを商品化する。この逆説こそが、現代における前衛の最大のジレンマである。しかしながら、本稿は制度を一枚岩的な抑圧装置として単純化することを避ける。制度は内的緊張と闘争によって特徴づけられる動的な空間である。制度内部には亀裂、矛盾、不均衡が存在し、それらは批評的介入の可能性を提供する。真の批判は、制度の「外部」という想定された純粋空間からではなく、制度の内部における戦略的実践として追求されなければならない。この批判的距離とは、固定的な位置ではなく、動的な関係性として理解されなければならない。制度に完全に同化すれば批評性を失い、制度から完全に離脱すれば影響力を失う。必要なのは、制度との緊張関係を絶えず調整し続ける戦略的実践である。

◆第一章 前衛概念の歴史的変遷——制度化への軌跡

 前衛音楽の現在的状況を理解するためには、まず「前衛」概念そのものの歴史的変遷と、その制度化への軌跡を把握する必要がある。

 社会学者ピーター・ラドウィグ・バーガー Peter Ludwig Bürger (1929–2017) が指摘するように、「前衛 avant-garde」という概念は、19世紀以降、単なる芸術的手法を超えて、歴史の推進力としての芸術の在り方を象徴するものであった (Bürger, 1984: 25-45)。元々は軍事用語であり「前哨部隊」を意味するこの言葉は、革命期フランスにおいて政治運動と結びつき、ついで芸術運動へと転用されていった (Poggioli, 1968: 3-8)。重要なのは、この転用過程において、前衛概念が本質的に政治的性格を帯びるようになったことである。前衛とは、単なる表現の新しさではなく、社会構造に対する批判的態度と不可分なものであった (Egbert, 1967: 339-366)。

 20世紀に入ると、前衛音楽はより複雑で多様な様相を呈するようになる。テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ Theodor Wiesengrund Adorno (1903–1969) によれば、アルノルト・フランツ・ヴァルター・シェーンベルク Arnold Franz Walter Schönberg (1874–1951) による十二音技法の確立は、調性音楽の制度的基盤を根底から揺るがすものであった (Adorno, 1997: 54-67)。しかし、より根源的な転回をもたらしたのは、戦後における音楽概念そのものの拡張である。ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア John Milton Cage Jr. (1912–1992) の偶然性の音楽、シェフェールの具体音楽、シュトックハウゼンの電子音楽——これらの実践は、音の素材そのものを問い直すラディカリズムを通じて、感覚の枠組みそのものを撹乱してきた (Cage, 1961: 3-34)。ケージの《4分33秒 4’33″》(1952年) は、この根源的転回の象徴的事例である。この作品は、沈黙を音楽と呼ぶことによって、「音楽とは何か」という問いを聴取者に直接投げかけた。それまで背景とされていた環境音、聴衆のざわめき、空間の響きそのものが、作品の一部として浮上してくる。このとき、「作品」「演奏」「聴取」という概念は解体され、聴取の出来事そのものが音楽となる (Cage, 1961: 109-127)。重要なのは、これらの実践が単なる技術的革新ではなく、「音楽とは何か」「聴くとは何か」という根本的な問いと結びついて展開されたことである。

 しかし、21世紀の現在、この批評的機能には重大な変化が生じている。ピエール・フェリックス・ブルデュー Pierre Félix Bourdieu (1930–2002) が指摘するように、かつては周縁にあった前衛的実践が、むしろ文化資本として中心に取り込まれる現象が顕著となっている (Bourdieu, 1993: 29-73)。美術館に展示された反芸術、学術機関で研究される即興演奏、配信サービスでレコメンドされるノイズミュージック——これらは、前衛芸術が本来保持していた制度への敵対性が、制度の内部構造に吸収される事態を示している (Bürger, 1984: 57-82)。ジャン・ノエル・ボードリヤール Jean Noël Baudrillard (1929–2007) が指摘するように、この制度化過程の背景には、資本主義社会が有する「差異の同化装置」としての側面がある (Baudrillard, 1970: 88-118)。市場は差異や逸脱を排除するのではなく、むしろそれらを積極的に取り込み、資本主義的価値へと転換することで自己を拡張していく。かつて異端とされた音が「現代音楽」「前衛芸術」としてジャンル化され、学術的アーカイヴに収められ、「聴取可能なもの」となってしまう構造がここに成立する (Bürger, 1984: 58-63)。

 さらに深刻なのは、この制度化が前衛の語彙そのものを資本の論理に従属させることである。「革新性」「実験性」「先進性」といった前衛の価値は、文化産業における商品差別化の戦略として機能し、「前衛」であることそのものが一種の商品価値と化している。ギー・エルネスト・ドゥボール Guy Ernest Debord (1931–1994) が示すように、資本主義はその対抗的実践すらもスペクタクル化し、自らの消費の対象へと転換する特殊な能力を持つ (Debord, 1967: 1-15)。

 しかし、この診断を前衛の完全な終焉として受け取るべきではない。むしろ問題は、高度に発達した資本主義社会において、なお批評的機能を持続させる前衛の新たな条件を見出すことである。

◆第二章 制度内批評の理論的可能性——戦略的距離と微細な実践

 アドルノの「否定弁証法 Negative Dialektik」は、制度化された状況においても前衛性を持続させる理論的手がかりを提供する (Adorno, 1973: 3-26)。アドルノが展開した「非同一的なもの」の概念は、制度的同化に抗する思考の可能性を理論的に基礎づける。真の批判的思考とは、対象を既存の概念枠組みに還元することを拒否し、概念と対象の間に残存する「非同一性」を維持し続けることにある。この否定弁証法の音楽美学への適用が、『美学理論 Ästhetische Theorie』における「美的仮象」概念である (Adorno, 1997: 1-15, 104-124)。アドルノによれば、真の芸術作品は現実との和解を拒否し、現存する社会の矛盾を暴露する「否定性」を保持する。この否定性こそが、制度化された状況においても前衛性を持続させる核心的要素である。重要なのは、この否定性が単なる反抗や拒否ではなく、より微細で持続的な批評的距離として理解されることである。アドルノが新ウィーン楽派に見出したのは、調性システムの歴史的安定性に対する内在的批判の可能性であった (Adorno, 1997: 54-67)。シェーンベルクの十二音技法は、調性を外部から破壊するのではなく、調性の論理を極限まで推し進めることで、その内部矛盾を露呈させる戦略であった。

 この戦略は現代の前衛音楽にとって示唆的である。制度を単純に拒否するのではなく、制度の論理を過剰に演じることで、その限界を内部から暴露すること——これが制度内批評の基本的構造である。ケージの《4分33秒》は、この具体例として理解できる。この作品は、演奏会という制度空間そのものを舞台とした実験であった (Sontag, 1969: 3-34)。演奏会場、演奏者、聴衆、楽器、楽譜——これらすべての制度的要素は保持されているが、それらの機能は根本的に転倒されている。この転倒によって、制度の見えない前提が問い直される。しかし、アドルノの否定弁証法だけでは、現代資本主義の動的性格を十分に捉えられない。ここで補完的に導入すべきなのが、ジル・ルイ・ルネ・ドゥルーズ Gilles Louis René Deleuze (1925–1995)とピエール=フェリックス・ガタリ Pierre-Félix Guattari (1930–1992) の資本主義分析である。彼らが『アンチ・オイディプス L’Anti-Œdipe』および『千のプラトー Mille Plateaux』において展開した資本主義論は、前衛の戦略的可能性を理解する上で決定的である (Deleuze & Guattari, 1972: 139-271; 1980: 580-599)。彼らによれば、資本主義は「脱コード化」と「再領土化」という二重の運動によって機能する。資本主義は伝統的コードを破壊し流動化させる(脱コード化)が、同時にそれを貨幣という抽象的コードのもとに再統合する(再領土化)。重要なのは、脱コード化と再領土化の間には本質的な時間的ズレが存在するということである。この時間的間隙こそが、「逃走線 ligne de fuite」が生成される空間である (Deleuze & Guattari, 1980: 9-37)。前衛音楽における「戦略的距離」とは、まさにこの時間的間隙を戦略的に利用する実践である。新たな音響実践が出現した瞬間、それはまだ資本の論理に完全には包摂されていない。ノイズは「ノイズミュージック」というジャンルになり、即興は「フリー・インプロヴィゼーション」として市場化されるが、この市場化には必然的に遅延が伴う。この遅延の時間において、音響実践は資本の論理とは異なる価値体系、異なる社会的関係、異なる聴取様式を実験的に構築できる。

 デレク・ベイリー Derek Bailey (1930–2005) のフリー・インプロヴィゼーションは、この遅延戦略の好例である (Bailey, 1992: 138-142)。ベイリーの即興演奏は、反復不可能性を本質とするため、録音という商品化のプロセスに根本的に抵抗する。即興の核心的価値——偶然性、リスク、演奏者と聴衆の相互作用——は、録音によって完全には捕捉されない。この捕捉不可能性が、商品化の遅延を生み出す。ミシェル・ド・セルトー Michel de Certeau (1925–1986) が『日常的実践のポイエティーク L’invention du quotidien』で展開した「戦術 tactique」概念は、微細な実践の理論的基盤を提供する (de Certeau, 1980: 57-63)。セルトーは「戦略 stratégie」と「戦術」を区別する。戦略とは、固有の場所を持つ権力主体が行使する計画的行為である。それに対して戦術とは、固有の場所を持たない主体が、他者の領域内で展開する即興的行為である。前衛音楽における「微細な実践」は、まさにこの戦術の論理に従う。それは制度を正面から攻撃するのではなく、制度の内部で微細な逸脱を累積させる。

 ブルデューが『芸術の規則 Les règles de l’art』で展開した「文化的生産の場」概念によれば、芸術家は「純粋芸術の極」と「商業的成功の極」の間で位置取りを行う (Bourdieu, 1996: 214-240)。前衛音楽家にとっての批判的距離とは、この位置取りの戦略的操作として理解できる。ヘルムート・フリードリヒ・ラッヘンマン Helmut Friedrich Lachenmann (1935–) の実践は、この戦略の好例である。ラッヘンマンは、クラシック音楽の制度的枠組みを維持しながら、その内部で楽器の「誤用」を通じてノイズを導入し、美的カテゴリーを撹乱している (Lachenmann, 2004: 91-102)。

 前衛音楽の制度内批評における最も重要な戦略は、聴取そのものの政治性に介入することである。ジャック・ルイ・ランシエール Jacques Louis Rancière (1940–) が展開した「感性の政治学」は、その理論的基盤を提供する。何が見えるもので何が見えないものか、何が聞こえるもので何が聞こえないものか——これらの境界を引き直すことが政治的行為の本質であるならば、前衛音楽の批評的機能は、まさに聴取の境界を引き直すことにある (Rancière, 2004: 7-19)。制度は常に「何を音楽と見なすか」「何を音と認識するか」といった境界線を引くことで、感覚の領域を規定しようとする。前衛音楽の実践はこの境界において生起するノイズ、不確定性、断絶、逸脱といった要素を通じて、聴取感覚の自明性を撹乱する (Adorno, 1997: 315-334)。

◆第三章 聴取の問い直しとしての前衛実践——シェフェールとシュトックハウゼンの事例

 前章で論じた制度内批評の可能性は、シェフェールとシュトックハウゼンという二人の作曲家の実践において、具体的に実現されている。

 フランスの作曲家シェフェールは、「ミュージック・コンクレート musique concrète」の創始者として知られるが、彼の試みの本質は新技術の導入ではなく、音楽の認識論的基盤を揺るがすラディカルな挑戦にあった (Schaeffer, 1966: 77-95)。シェフェールは1948年の《エチュード・オ・シュマン・ド・フェール Étude aux chemins de fer》を皮切りに、既存の楽譜や記譜、演奏といった伝統的構造をすべて解体し、「録音された音」そのものを素材として扱うという逆転の発想を提示した。従来の音楽制度においては、楽譜が音楽の「存在」を規定し、演奏はその「現実化」として位置づけられていた。しかしシェフェールの具体音楽においては、録音された音響事象そのものが音楽の「存在」となり、楽譜や演奏という媒介項は消失する。シェフェールが導入した「還元的聴取 écoute réduite」の概念は、この転回の核心を成す (Schaeffer, 1966: 208-230)。これは、音の発生源や意味的内容からいったん距離を取り、音そのものの音響的性質に集中するという、エドムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール Edmund Gustav Albrecht Husserl (1859–1938) 的現象学に通じる態度である。シェフェールが『音楽的対象論 Traité des objets musicaux』(1966年) で詳細に展開した「音楽的対象 objet musical」の理論は、この批評的実践の理論的基盤を提供している。音楽的対象とは、還元的聴取によって構成される音響的単位である。それは物理的音響でも心理的感覚でもなく、聴取という意識作用と音響現象の相関において成立する現象学的対象である (Schaeffer, 1966: 245-270)。この音楽的対象の理論によって、シェフェールは音楽を従来の制度的規定から解放し、聴取の現象学的構造に基づいて基礎づけようとした。

 一方、シュトックハウゼンの実践は、より包括的な時間・空間・人間の秩序そのものへの干渉として展開された (Stockhausen, 1989: 15-35)。シュトックハウゼンの電子音楽作品《習作I Studie I》(1953年)、《習作II Studie II》(1954年) は、純粋に電子的に合成された音響による最初の作品群として音楽史に記録されている (Stockhausen, 1989: 110-145)。しかし、これらの作品の意義は技術的新奇性にあるのではなく、聴取の時間的構造そのものを問い直したことにある。《習作I》では、純正律の倍音関係に基づく音高構造が、極めて精密に電子的に合成されている。この作品において、聴取者は従来の調性的聴取習慣では把握困難な微細な音程関係に直面する。《習作II》では、さらに複雑な音響スペクトルの操作が行われ、音色と音高の境界そのものが問い直されている。これらの作品は、楽器演奏という身体的媒介を完全に排除することで、音響現象の純粋な構造を聴取の対象とした。シュトックハウゼンの空間音楽の構想を実現した《グルッペン Gruppen für drei Orchester》(1955–57年) は、三群のオーケストラを舞台上に三方向に配置し、音響の空間的移動を作品の構造原理とした革命的作品である (Stockhausen, 1989: 200-235)。この作品では、聴取者は従来の正面性を前提とした演奏会空間の制約から解放され、音響の立体的展開を経験することになる。重要なのは、この空間的革新が単なる音響効果ではなく、聴取主体の空間的位置づけそのものを問い直していることである。晩年のオペラ・サイクル《光 LICHT: Die sieben Tage der Woche》(1977–2003年) シリーズは、7つのオペラからなるサイクルであり、曜日、色彩、身体部位、惑星などの象徴体系を音楽構造と対応させた壮大な統合芸術として構想されている (Stockhausen, 1989: 250-275)。《光》シリーズの各作品は、従来のオペラの制度的枠組みを維持しながら、その内容を根本的に転換している。

 シェフェールとシュトックハウゼンの実践に共通するのは、制度的にコード化された聴取をいったん宙吊りにし、その空隙に新たな感覚の経験を立ち上げようとした点である (Kahn, 1999: 195-225)。シェフェールは日常の音の中に芸術の可能性を見出すことによって、芸術概念の閉域を開放し、聴取を再政治化した。シュトックハウゼンは音を「超人間的な力」として再定義することにより、人間中心主義的な音楽制度そのものを相対化した (Stockhausen, 1989: 250-275)。

 どちらの作曲家も、「音とは何か」「音楽とは誰のものか」「感覚とは制度によっていかに形づくられているか」という問いに真正面から対峙した。彼らの音楽は、資本の論理を把握しつつ、その内部で微細なズレや逸脱を戦略的に導入することで、聴取の異化作用を及ぼす実践として機能した (Adorno, 1997: 315-335)。

 肝要なのは、これらの作曲家の実践が現在においても、単なる歴史的事例ではなく、前衛音楽の批評的可能性を示す現在的モデルとして機能することである。彼らの実践がいまだに聴取の根本を問い続けているのは、彼らの音楽が「何を聴かせるか」ではなく、「どのように聴かせるか」「どのように聴き直させるか」を問うものであったからである (Adorno, 1997: 350-365)。この問いかけの構造こそが、制度化を超えて持続する前衛性の核心である。

◆第四章 制度の地政学と非中心的前衛の可能性

 前章で検討したシェフェールとシュトックハウゼンの実践は、主として西ヨーロッパという「中心」から発された前衛の事例であった。しかし、グローバル資本主義の現代において、前衛の可能性を包括的に考察するためには、より広い地政学的視座が必要である。

 ホミ・キリアン・バーバ Homi Kiran Bhabha (1949–) が問うように、西ヨーロッパの周縁、あるいはその外部に位置づけられる主体にとって、前衛であることはどのように可能なのか (Bhabha, 1994: 85-92)。この問いは単なる地理的問題ではなく、制度と知覚の関係が、どのような歴史的・政治的文脈のもとで構築されてきたのか、という根本的な問題に関わる。エドワード・ワディ・サイード Edward Wadie Said (1935–2003) が『オリエンタリズム Orientalism』において明らかにしたように、西洋的知識の権力構造は、文化的表象を通じて他者を支配する巧妙なメカニズムを含んでいる (Said, 1978: 1-28)。音楽の領域においても、同様の権力構造が作動している。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリーは、中立的な分類ではなく、特定の文化的ヒエラルキーを前提とした権力装置である。したがって、「どこで前衛であるか」「誰に対して前衛であるか」という地政学的問題を抜きにして、現代における前衛を論ずることはできない。前衛概念そのものが、西ヨーロッパ的近代性の産物であり、その概念を無批判に普遍化することは、文化的帝国主義に加担することになりかねない。

 現代では、国際現代音楽祭やアカデミー、助成制度等において、かつて周縁とされた地域からの作曲家たちが積極的に参加している (Taylor, 1997: 26-45)。この現象は、一見すると前衛音楽の民主化や脱中心化を示すように見える。しかし、より注意深い分析が必要である。制度の内部に参入することで初めて「前衛」として認識されるという構造が、逆説的に制度の権力性を強化している (Taylor, 1997: 45-72)。例えば、武満徹 Takemitsu Tōru (1930–1996) や細川俊夫 Hosokawa Toshio (1955–) といった東アジア出身の作曲家が、欧州の現代音楽界において高い評価を得たことは事実である (Burt, 2001: 1-25)。しかし、その評価はしばしば「異質な文化的出自をもった者が、制度の様式を巧みに習得した」という物語の中に位置づけられやすい (McClary, 1989: 57-81)。武満の《ノヴェンバー・ステップス November Steps for biwa, shakuhachi and orchestra》(1967年) は、琵琶と尺八という日本の伝統楽器とオーケストラを組み合わせた作品として国際的な注目を集めた。しかし、この作品の受容過程では、「東洋的神秘性」や「日本的美意識」といった本質主義的言説が前景化し、武満の音楽的思考の複雑さは単純化されがちであった。スラヴォイ・ジジェク Slavoi Žižek (1949–) が指摘するように、真に前衛的であるとは、既成の文化的カテゴリーに従うことを拒否し、資本主義が前提としている時間観、空間観、聴取観そのものに介入していく事である (Žižek, 1989: 33-55)。それは単なる異文化的表象の導入ではなく、制度作用のなかで政治性の実践可能性を再構成するような批評的姿勢である。バーバのハイブリディティ論は、この批評的実践の理論的枠組みを提供する (Bhabha, 1994: 85-92, 112-116)。バーバが『文化の場所 The Location of Culture』で展開した「第三空間 third space」概念は、文化的アイデンティティの固定性を解体し、差異と反復の弁証法的過程として文化を捉え直す (Bhabha, 1994: 36-39)。第三空間とは、支配的文化と従属的文化の単純な対立を超えた、新たな意味生産の場である。フィリピンの作曲家ホセ・モンセラート・マセダ José Montserrat Maceda (1917–2004) による音楽実践は、西洋的現代音楽の技法と東南アジアの伝統的音響文化を単純に融合させるのではなく、両者の境界そのものを問い直す実験であった (Maceda, 1986: 62-78)。マセダの《ウグナヤン Ugnayan, for 20 Radio Stations》(1974年) は、20台のラジオ、声、ガンサ(青銅製ゴング)を用いた大規模なサウンド・インスタレーションである。この作品では、ラジオから流れる現代的音響情報と、ガンサの伝統的音響が同一空間で展開されるが、それらは調和的に統合されるのではなく、相互に干渉し合う異質な音響層として配置されている。

 このような非中心的前衛の実践は、しばしば制度的に整備された音楽空間の外部で展開される。マックス・ニューハウス Max Neuhaus (1939–2009) による《タイムズスクエア Times Square》(1977–1992、2002–) は、ニューヨークのタイムズスクエアの地下に設置された音響装置が、都市の騒音と微細に混合する持続音を放出し続ける作品である (LaBelle, 2006: 200-210)。この作品は、美術館やコンサートホールという制度空間を完全に迂回し、都市生活者の日常的移動の中に音楽的経験を挿入する。

 記譜法そのものの脱構築を通じて、時間・主体・作品といった西洋的作曲概念に揺さぶりをかける動向も見出せる。アール・ルイス・ブラウン Earle Louis Brown (1926–2002) の「オープン・フォーム open form」やモートン・フェルドマン Morton Feldman (1926–1987) の図形楽譜は、演奏者の解釈的自由度を拡張することで、作曲家の権威を相対化した (Brown, 1986: 180-201; Feldman, 2000: 1-15)。

 非中心的位置からの前衛的実践は、単に「多様性」や「多文化主義」の名のもとに称揚されるべきではない。そのような称揚は、しばしば既存の権力関係を温存し、真の批評性を無害化する効果を持つ。必要なのは、地政学的権力関係を明確に意識しながら、その関係そのものを変容させる実践である。

 ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァック Gayatri Chakravorty Spivak (1942–) が「サバルタンは語ることができるか? Can the Subaltern Speak?」で提起した問題は、この文脈において重要である (Spivak, 1988: 271-313)。周縁化された主体の発話は、支配的言説の枠組みの中でのみ「理解可能」となるが、その理解可能性こそが発話の批評性を中和してしまう。現代の非中心的前衛は、この「理解可能性の罠」を回避しながら、なおも批評的効果を発揮する戦略を開発する必要がある。

◆第五章 音のあわい——制度化を逃れる感覚の場

 前衛音楽とは、資本主義の内側に居ながらも、つねに資本の論理を横滑りし、音と沈黙の「あわい(間)」に新たな感覚の地平を開こうとする企てである。この章では、この「あわい」の空間がいかにして制度化を逃れる感覚の場として機能するかを、現象学的・美学的観点から検討する。

 京都学派哲学において重要な「あわい」概念は、主客未分の純粋経験が分節化される以前の根源的場所である (西田, 1911: 9-25)。それは単なる曖昧さや中間性を意味するのではなく、対立的規定に先立つ創造的無の場所として理解される。前衛音楽における「音のあわい」も、同様の構造を持つ。それは、資本主義が確定しようとする秩序の輪郭を撹乱し、意味と感覚のあいだに裂隙を生じさせる空間である。モーリス・メルロ=ポンティ Maurice Merleau-Ponty (1908–1961) の身体現象学は、この未規定の経験の構造を理解する上で決定的な重要性を持つ (Merleau-Ponty, 1962: 235-282)。メルロ=ポンティが『知覚の現象学 Phénoménologie de la perception』で展開した「身体的主体」概念は、聴取の根源的な構造を明らかにする。聴取する身体は、音響世界との間に志向的関係を結びながら、同時にその音響世界によって触発される受動的存在でもある。さらに重要なのは、メルロ=ポンティの後期思想における「肉 chair」概念である (Merleau-Ponty, 1968: 130-155)。肉とは、見るものと見られるもの、触れるものと触れられるもの、聴くものと聴かれるものの相互浸透的関係を指す。この肉の次元において、主体と客体の区別は曖昧になり、感覚は相互的で可逆的な過程として現れる。前衛音楽における「あわい」は、この肉の次元で生起する。そこでは、作曲家・演奏者・聴取者という制度的役割分担が溶解し、音響現象への参与的関与が成立する。

 ケージが《4分33秒》において提示したのは、単なる音の不在ではなく、「聴取すること自体」を音楽の主題へと転換させることであった (Cage, 1961: 109-127)。この転換によって、制度的に規定された「作品」や「演奏」という概念は解体され、聴取の出来事そのものが音楽となる。重要なのは、この作品がただ「沈黙」を提示しているわけではないという事実である。実際の演奏においては、演奏者の身体音、聴衆のざわめき、空調の音、外部からの騒音など、無数の音響が立ち現れる。ケージ自身は、この転換の意義を仏教的無我の思想と関連づけて理解していた。「私が沈黙について学んだのは、沈黙は存在しないということです。つねに何かが起こっています。何かが音を立てています。」(Cage, 1961: 8)。この「つねに何かが起こっている」状態への開かれが、制度化された聴取からの解放を意味する。

 前衛音楽における「あわい」の空間は、時間的次元においても重要な変容をもたらす。スティーヴ・マイケル・ライヒ Stephen Michael Reich (1936–) のミニマリズムにおける極限まで単純化された素材の反復は、聴取者の時間感覚を撹乱し、「いま・ここ」に固定された時間意識を解体する (Reich, 2002: 22-30)。ライヒの《ピアノ・フェイズ Piano Phase》(1967年) では、二台のピアノが同じ旋律パターンを微細な速度差で反復する。この微細な差異によって、旋律の位相関係が徐々に変化し、新たなリズムパターンが浮上する。フェルドマンの異常に長大で静謐な楽曲は、この時間の質的経験をさらに極限まで推し進める (Feldman, 2000: 93-96)。フェルドマンの《弦楽四重奏曲第2番 String Quartet No. 2》(1983年) は、約6時間の演奏時間を要する。この作品では、微細な音量と音色の変化が、極めて緩慢なテンポで展開される。フェルドマン自身は、この経験を「時間の中に入ること」として記述している。「私の音楽では、時間が停止するのではなく、私たちが時間の中に入るのです。時間が私たちを包み込み、私たちは時間と一つになります。」(Feldman, 2000: 95)。

 前衛音楽における「あわい」の空間は、身体性の次元においても重要な政治的含意を持つ。リュシアン(リュック)・ルイ・マルセル・フェラーリ Lucien (Luc) Louis Marcel Ferrari (1929–2005) による環境音の採集、デレク・ベイリーの廃墟での即興演奏、デイム・イヴリン・エリザベス・アン・グレニー Dame Evelyn Elizabeth Ann Glennie (1965–) などの聴覚障害を持つ身体による演奏——これらは、音楽制度の身体的前提を問い直す実践である (Bailey, 1992: 138-142; Glennie, 1990)。グレニーの打楽器演奏は、聴覚中心主義的な音楽概念を根本から問い直す。聴覚障害を持つグレニーは、音響を身体全体で感受し、振動の触覚的次元を音楽的表現の資源とする。グレニーの演奏において、音楽は耳で聴くものから身体で感じるものへと拡張される。

 エマニュエル・レヴィナス Emmanuel Levinas (1906–1995) の他者論は、この聴取の倫理的次元を理解する上で重要な手がかりを提供する (Levinas, 1969: 194-219)。レヴィナスが『全体性と無限 Totalité et infini』で展開した「他者の顔 visage de l’autrui」概念は、音楽における他者性の経験を理解する鍵となる。レヴィナスにとって、他者の顔とは、私の理解や把握を超越する無限性の現れである。ジャック・マリー・エミール・デリダ Jacques Marie Émile Derrida (1930–2004) が『声と現象 La voix et le phénomène』で展開した「現前の形而上学」批判は、前衛音楽における「現在性」の問題を考察する際の理論的基盤となる (Derrida, 1973: 60-87)。デリダによれば、音声は一見すると現前性の特権的媒体であるように見えるが、実際には「差延 différance」の構造に貫かれている。また、ジャン=リュック・ナンシー Jean-Luc Nancy (1940–2021) が『聴くこと À l’écoute』で展開した聴取論は、この感覚の場を明確化する (Nancy, 2007: 1-15)。ナンシーによれば、聴くことは見ることとは異なり、対象との距離を前提としない。聴取において、私は音響に包まれ、音響と共振する。この共振が、主体と客体の境界を溶解させ、新たな関係性を生成する (Nancy, 2007: 30-45)。

 したがって、前衛とは、過去の革新の記録でも、未来の予言でもない。それは、現に「ここで・この身体で」立ち上がる、資本に触れながら資本を越境する、感覚の実践である。その実践は、いかなる意味にも回収されず、いかなる価値にも還元されない、「あわい」の中でひそかに響きつづける。

◆結論——感覚の不可逆的変容としての前衛

 本稿の考察を通じて明らかになったのは、前衛音楽の批評的可能性が、作品や様式の革新性にあるのではなく、聴取という行為に刻まれる不可逆的変容にこそ存在するという点である。

 前衛音楽の実践は、単に現在における制度批判として機能するだけでなく、聴取者の知覚様式に痕跡を残し、その痕跡は未来において新たな批評的可能性を開く潜在的資源となる。シェフェールが日常音を音楽として聴くことを可能にし、ケージが沈黙を音響経験として構成したとき、それらは単なる一回的な実験ではなく、聴取の「考古学的地層」に新たな層を付加した。一度ノイズを美として経験した耳は、完全には元の状態に戻らない。この感覚の記憶の累積こそが、資本の包摂力に対する最も根源的な抵抗である。本稿が提示したのは、「批評的寄生」という概念である。前衛音楽は制度を破壊せずに撹乱する。この寄生的関係は、一見すると制度への妥協に見えるが、実際には制度の自己同一性を徐々に侵食し、制度そのものを別のものへと変容させる持続的介入である。さらに、本稿の理論的貢献として強調すべきは、前衛の条件を時間論的に再定義したことである。従来の前衛論は空間的メタファー(前線、先端、周縁vs中心)に依拠してきたが、本稿が明らかにしたのは、前衛の本質が「遅延の政治学 politics of delay」にあるという点である。前衛音楽の批評性は、空間的な「どこ」にあるかではなく、時間的な「いつまで」制度化を遅らせられるかにかかっている。

 地政学的考察から導かれるのは、「複数の前衛性 multiple avant-gardes」という視座である。西洋中心的な単一の前衛史観を解体し、マセダやニューハウスのような非中心的実践を等価に位置づけることは、前衛概念の複数化を意味する。前衛の普遍理論は存在せず、あるのは状況依存的な批評的戦術の集積である。

 最終的に提起すべきは、「聴取の債務」という倫理的概念である。現代の前衛音楽家は、過去の前衛が開いた聴取可能性の上に立っている。ケージ以後、我々はもはやケージ以前の耳では聴けない。我々は過去の前衛から受け取った感覚的遺産を引き継ぎ、それを未来へと伝達する責任を負う。前衛音楽家の倫理的課題は、受け取った遺産を反復することなく継承し、固定することなく伝達するという逆説的実践にある。

 ただし、21世紀のデジタル資本主義において、本稿が論じた「遅延の政治学」は新たな挑戦に直面している。アルゴリズムは瞬時に新たな実践を捕捉し、分類し、推薦し、市場化する。生成AIは、人間が「実験的」と認識する音楽を学習し、無限に生成できる。この状況において、「戦略的距離」の維持は、20世紀とは比較にならない困難を伴う。しかし、この困難の認識こそが、新たな批評的実践の出発点となる。完全な包摂が実現された世界において、なお抵抗の可能性を探ること。これが、21世紀における前衛の最も困難で、最も切実な課題である。

 結論として、前衛音楽の批評的可能性は、作品の革新性や作曲家の意図にあるのではなく、聴取という集合的・歴史的実践に刻まれる感覚の変容の累積にこそ存在する。それは華々しい革命ではなく、耳の考古学的地層に静かに沈殿していく微細な変化であり、その変化こそが、資本の論理では回収しきれない批評的剰余として、未来における新たな聴取可能性の条件を準備し続けるのである。

 前衛であることとは、この累積的変容のプロセスに意識的に参与し、聴取の債務を引き受け、感覚の未来に対して応答可能であり続けることに他ならない。音楽は問いであり、態度である。そしてそれが問われる場こそが、資本に包摂された我々の生活の「あわい」にある、この現実そのものである。前衛音楽の真の可能性は、この現実への繊細で批判的な応答において、静かに、しかし確実に、開かれ続けるのである。

水谷晨,2025,東京.

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