後期資本主義社会における『前衛音楽』の在り方に対する小論


——制度・聴取・感覚の政治学——

A Treatise on the Condition of ‘Avant-Garde Music’ in Late Capitalist Society

——Institution, Listening, and the Politics of Sensation——

2025/May/17
水谷晨

◆要旨

 本稿は、後期資本主義社会において前衛音楽がいかなる批評的機能を持続しうるかを問う。20世紀の前衛実践の多くが現在では教育機関・文化財団・公共助成といった制度的枠組みに取り込まれ、その政治的鋭さを失いつつあるという診断は広く共有されている。しかし本稿は、この事実から前衛の可能性を全面的に否定することを拒否する。本稿が提示する中心テーゼは三重である。第一に、制度内批評の可能性——前衛音楽は制度を外部から攻撃するのではなく、制度の内部における「戦略的距離」を通じて批評性を持続させる。第二に、「遅延の政治学(politics of delay)」——前衛の批評性は、空間的な位置ではなく、資本による包摂を時間的に遅延させる能力に存する。第三に、「感覚の不可逆的変容」——前衛音楽の批評的遺産は、個々の作品や様式の革新性にあるのではなく、聴取者の知覚様式に刻まれた累積的変容にある。論証はピエール・アンリ・マリー・シェフェール Pierre Henri Marie Schaeffer(1910–1995)とカールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen(1928–2007)の実践分析を軸とし、テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ Theodor Wiesengrund Adorno(1903–1969)の否定弁証法、ジル・ルイ・ルネ・ドゥルーズ Gilles Louis René Deleuze(1925–1995)=ピエール=フェリックス・ガタリ Pierre-Félix Guattari(1930–1992)の資本主義論、ミシェル・ド・セルトー Michel de Certeau(1925–1986)の戦術概念、ジャック・ルイ・ランシエール Jacques Louis Rancière(1940–)の感性の分割論を理論的基盤とする。さらに、制度の地政学的次元と現象学的聴取論を統合することで、21世紀のデジタル資本主義における前衛の条件を再定義する。本稿の方法論的特徴として、自己言及的問題への実質的な応答を試みる点を挙げておく。本稿は、学術論文という制度的形式の内部で執筆されているという矛盾を単に「承認する」にとどまらず、その矛盾がいかに本論の各議論を条件づけているかを追跡的に示すことで、「批評的寄生」の実践を論文形式そのものにおいて試みる。この試みが成功しているかどうかは、読者の批判的判断に委ねられる。

◆はじめに——問題設定、論述の構造、および方法論的注記

 本稿の中心的問いは、資本主義社会において前衛音楽がいかなる批評的機能を持続しうるのか、という点にある。この問いは一見すると単純であるが、実際には複数の互いに緊張関係にある問いを含んでいる。前衛音楽の「批評性」とは何か。「持続する」とはいかなる意味においてか。そして、何に対する批評なのか。20世紀前半に展開された前衛音楽の多くが、現在では教育機関、文化財団、公共助成といった制度的枠組みに取り込まれ、その革新的・政治的性格を希薄化させているという現実がある。ピエール・フェリックス・ブルデュー Pierre Félix Bourdieu(1930–2002)が「文化的生産の場」論で示した「正統化の逆説」——すなわち、前衛的実践が承認を求めれば求めるほど、その急進性が中和されるという構造——は、今日において一層深刻な形で作動している(Bourdieu, 1993: 29-73)。しかし、この事実をもって前衛音楽の可能性を全面的に否定することは、問いを閉じることであって、問いに答えることではない。本稿が採用するのは、この問いを開いたまま維持する戦略である。すなわち、制度化という事態を直視しながら、制度の内部において批評的機能がいかにして持続しうるかを、理論的かつ実証的に追跡すること。その核心的条件が、資本主義との「批判的距離」を保ちながら「聴取そのものを問い直す実践」にあることを、本稿は論じる。しかし、ここで方法論的な問題を正面から取り上げなければならない。本稿自体が、学術制度内で執筆された高度に制度化された言説である。引用規則、節構成、参考文献リスト——これらはすべて制度的規律の産物である。この矛盾から逃れようとすることは、前衛音楽家が制度の「外部」という純粋空間を夢想することと同様に、自己欺瞞に陥る危険を孕む。むしろ本稿は、この矛盾を明示的に承認し、制度的言語の内部で最大限の批評的距離を模索する実践として、自らを位置づける。重要なのは、この自己言及的承認が「宣言」にとどまってはならないという点である。前稿における評者の指摘を引き受けるならば、矛盾の承認が単なるメタコメントとして制度内に吸収されるとき、それは承認という形式をとった服従にほかならない。本稿が試みるのは、より実質的な介入である。具体的には、各章の議論が制度的規律にいかに条件づけられているかを内省的に追跡し、その追跡の行為自体を本論が論じる「批評的寄生」の実践として示すことである。この試みは第七章(自己批評的考察)において集約されるが、その萌芽は各章の論述の中に分散的に埋め込まれている。論述の構造は以下の通りである。第一章では「制度」概念を四つの次元において理論的に定義し、本稿の分析枠組みを確立する。第二章では前衛概念の歴史的変遷と制度化への軌跡を批判的に追跡する。第三章では制度内批評の理論的可能性を検討し、「戦略的距離」と「遅延の政治学」という核心概念を導出する。第四章ではシェフェールとシュトックハウゼンの実践を、本論の理論装置と明示的に接続しながら分析する。第五章では地政学的視座から制度の権力構造を問う。第六章では「音のあわい」の現象学を論じ、感覚の政治学の理論的基盤を確立する。第七章では、本稿の論述そのものを批評的考察の対象とし、制度的言語による自己批判の可能性と限界を問う。

◆第一章 「制度」概念の理論的定義——四次元的分析枠組み

 本論を展開するにあたり、中心概念である「制度(institution)」および「制度化(institutionalization)」について、その理論的射程を明確にしておく必要がある。本稿における「制度」は、単一の意味内容に還元されない複合的な概念として機能する。以下では、その四つの分析的次元を区別する。なお、この四次元的定義それ自体が「分類」という制度的認識論の産物であることは、本稿の自己言及的問題の一端を形成している。この点については第七章で再論する。

1.1 物質的・組織的基盤としての制度

 第一の次元において、制度とは音楽の生産・流通・受容を可能にする物理的・経済的インフラストラクチャーを指す。芸術大学、音楽院、コンサートホール、音楽祭、助成財団、レコード会社、そして現代においてはデジタル配信プラットフォームがこれに含まれる。これらは資本主義経済システムに深く組み込まれており、音楽実践の物質的条件を規定する。重要なのは、この物質的基盤が単なる「容れ物」ではなく、音楽実践の内容そのものを形成する能動的な力として機能するという点である。マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer(1895–1973)とアドルノが「文化産業(Kulturindustrie)」論において鋭く指摘したように、資本主義社会における文化の物質的流通条件は、文化的内容の形式そのものを規定する(Horkheimer & Adorno, 1944/2002: 94-136)。コンサートホールの音響設計は特定の聴取様式を前提とし、レコード盤の収録時間は作品の持続時間を規定し、配信アルゴリズムは推薦される音楽の種類を決定する。物質的条件の分析なしに音楽実践の批評性を論じることは、制度論の最も基礎的な次元を欠落させることになる。

1.2 象徴的・認識論的枠組みとしての制度

 第二の次元において、制度とは「何が音楽か」「何が芸術的価値を持つか」「誰が作曲家として認められるか」といった判断基準を社会的に構築する象徴的枠組みである。音楽大学の教授陣が定めるカリキュラム、批評家が用いる評価言語、音楽祭が選定する作品——これらすべてが、音楽と非音楽の境界線を引く権力的実践である。ブルデューが『芸術の規則 Les règles de l’art』で展開した「文化的生産の場(champ de production culturelle)」概念と「象徴資本(capital symbolique)」の理論は、この次元の分析に不可欠の道具を提供する(Bourdieu, 1992/1996: 214-240)。「前衛音楽」というカテゴリー自体が、こうした象徴的権力の産物である。それは中立的な分類ではなく、特定の美学的価値観と歴史観——西洋的な「進歩」の観念、個人的創造性の神話、技術的革新への特権的評価——を内包した制度的構築物である。この認識論的枠組みは、参入者にとって自明の「常識」として機能するがゆえに、その権力性が不可視化される。さらに、ブルデューが『実践の理論のためのエスキス Esquisse d’une théorie de la pratique』(1972/1977)で基礎概念として展開した「象徴暴力(violence symbolique)」は、この次元の作動様式を理論的に説明する(Bourdieu, 1972/1977: 183-197)。象徴暴力とは、支配関係が直接的な強制ではなく、被支配者の内面化された認識枠組みを通じて機能するものである。聴取の制度的規律は、まさにこのような自己規律化として作動する。

1.3 聴取と感覚の編成原理としての制度

 第三の次元こそが本稿の分析において最も核心的な位置を占める。制度は単に音楽を管理するのではなく、聴取主体そのものを生産する装置として機能する。何を「音楽的」と感受し、何を「雑音」として排除するか、どのような時間感覚で音楽を経験するか——これらは制度によって形成された知覚の様式である。演奏会場における静粛の規範は、その典型的な例である。ローレンス・ウィリアム・レヴァイン Lawrence William Levine(1933–2006)が『ハイブロウ/ロウブロウ Highbrow/Lowbrow』において歴史的に明らかにしたように、この規範は本来的に「自然な」ものではなく、19世紀以降に社会的に構築されたものである(Levine, 1988: 83-168)。楽章間の拍手の禁止、身体的静止の要求、特定の服装規範——これらは音楽的経験を「精神的」かつ「没身体的」なものとして定義する制度的規律であり、同時に特定の階級的位置を再生産する社会的実践でもある。ポール・ミシェル・フーコー Paul-Michel Foucault(1926–1984)が「規律(discipline)」論において展開したように、身体の制御は単なる外的強制ではなく、主体の内面化された自己管理として機能する(Foucault, 1975/1977: 135-228)。聴取の制度的規律は、まさにこのような自己規律化として作動する。聴衆は外部から沈黙を強制されるのではなく、「正しい」聴取様式を内面化した主体として、自発的に沈黙する。この内面化が完成するとき、制度は最も効率的に機能する。

1.4 権力関係の歴史的体現としての制度

 第四の次元において、制度とは歴史的に形成された非対称的権力関係を体現するものである。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリーは、中立的な分類ではなく、西洋中心主義的な文化ヒエラルキーを前提とした権力装置である。これらの用語は特定の地域(西ヨーロッパ)の音楽実践を普遍的規範として位置づけ、他の地域の音楽を「民族音楽」「伝統音楽」として周縁化する。この権力的作動については第五章において詳細に論じる。

1.5 制度化の複合的プロセスと「逆説的承認」

 本稿における「制度化」とは、これら四つの次元における包摂のプロセスを指す。具体的には、(1) かつて周縁的・実験的であった音楽実践が公式化されること、(2) 前衛的語彙が学術的分析において定型化されること、(3) 逸脱的な聴取様式が規範化されること、(4) 非西洋的実践が西洋的制度内に再配置されること、である。この制度化の最も精巧な作動様式は、「承認」という形式をとる。音楽大学が前衛音楽を教えることは、その保存と継承に貢献する。しかし同時に、前衛音楽を「教えうるもの」として定型化し、その批評的鋭さを鈍化させる。後期資本主義は対抗的実践を排除するのではなく、それを取り込み、差異そのものを商品化する。ジャン・ノエル・ボードリヤール Jean Noël Baudrillard(1929–2007)が指摘したように、資本主義の高度な発展段階においては、反抗そのものが消費可能なイメージへと変容する(Baudrillard, 1970: 88-118)。これが現代における前衛の根本的ジレンマである。しかしながら、本稿は制度を一枚岩的な抑圧装置として単純化することを避ける。制度は内的緊張と闘争によって特徴づけられる動的な空間である。制度内部には亀裂、矛盾、不均衡が存在し、それらは批評的介入の可能性を提供する。この可能性の理論的解明が、次章以降の課題となる。

◆第二章 前衛概念の歴史的変遷——制度化への軌跡と理論的含意

 前衛音楽の現在的状況を理解するためには、「前衛」概念そのものの歴史的変遷と、その制度化への軌跡を批判的に把握する必要がある。この追跡は単なる歴史記述ではなく、現代における問題の所在を特定するための理論的作業である。

2.1 「前衛」概念の系譜学——軍事から政治へ、政治から芸術へ

 社会学者ペーター・ビュルガー Peter Bürger(1936–2017)が指摘するように、「前衛(avant-garde)」という概念は、19世紀以降、単なる芸術的手法を超えて、歴史の推進力としての芸術の在り方を象徴するものであった(Bürger, 1984: 25-45)。元々は軍事用語であり「前哨部隊」を意味するこの言葉は、革命期フランスにおいて政治運動と結びつき、ついで芸術運動へと転用されていった。この転用過程において決定的なのは、前衛概念が本質的に政治的性格を帯びるようになったことである。前衛とは、単なる表現の新しさではなく、社会構造に対する批判的態度と不可分なものであった。この点を見落とすと、前衛音楽論は「新しさ」や「実験性」というむしろ資本主義的な価値観に回収されてしまう。前衛の批評性の核心は新奇性ではなく、既存の社会秩序への根源的な問いかけにある。この問いかけの様式は歴史的に変容してきた。ロシア・アヴァンギャルドにおいては、芸術の革命が社会の革命と直接的に接続されていた。ベンジャミン・ハインツ・ディーター・ブフロー Benjamin Heinz-Dieter Buchloh(1941–)が「ファクトゥーラからファクトグラフィーへ From Faktura to Factography」(1984)で詳細に論じたように、カジミール・マレーヴィチのシュプレマティスム、エル・リシツキーの構成主義等、ロシア・アヴァンギャルドは芸術的革新を政治的変革の手段として位置づけていた(Buchloh, 1984: 82-119)。しかし、20世紀中葉において、前衛芸術はこの政治的直接性を喪失し、より「純粋に」審美的な実践へと転換していく。この転換の背景には、全体主義国家における前衛芸術への弾圧と、西側民主主義における文化産業の発展という、二つの異なる抑圧メカニズムが作動していた。

2.2 戦後前衛の展開——音楽概念の根底的拡張

 20世紀に入ると、前衛音楽はより複雑で多様な様相を呈するようになる。アドルノによれば、アルノルト・フランツ・ヴァルター・シェーンベルク Arnold Franz Walter Schönberg(1874–1951)による十二音技法の確立は、調性音楽の制度的基盤を根底から揺るがすものであった(Adorno, 1997: 54-67)。しかし、より根源的な転回をもたらしたのは、戦後における音楽概念そのものの拡張である。ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア John Milton Cage Jr.(1912–1992)の偶然性の音楽、シェフェールの具体音楽、シュトックハウゼンの電子音楽——これらの実践は、音の素材そのものを問い直すラディカリズムを通じて、感覚の枠組みそのものを撹乱した(Cage, 1961: 3-34)。ケージの《4分33秒(4’33″)》(1952年)は、この根源的転回の象徴的事例として詳細な分析を要する。この作品は、沈黙を音楽と呼ぶことによって、「音楽とは何か」という問いを聴取者に直接投げかけた。しかし、その批評的射程は単純ではない。一方では、この作品は演奏会という制度空間そのものへの内在的批判として機能する——制度が「音楽」と規定するものの恣意性を、制度の内部から暴露する。他方では、この作品が「名作」として美術館的に定着するとき、その批評性は逆説的に中和される。《4分33秒》を「聴きに行く」ことが一種の文化的コードとなるとき、この作品はまさに自らが批判した制度の一部となる。この逆説——批評的実践が承認されることで批評性を失うという逆説——は、本稿が「遅延の政治学」として定式化する問題の核心を先取りしている。

2.3 制度化の逆説——承認が批評性を侵食するメカニズム

 21世紀の現在、前衛音楽の批評的機能には重大な変化が生じている。ブルデューが指摘するように、かつては周縁にあった前衛的実践が、むしろ文化資本として中心に取り込まれる現象が顕著となっている(Bourdieu, 1993: 29-73)。美術館に展示された反芸術、学術機関で研究される即興演奏、配信サービスでレコメンドされるノイズミュージック——これらは、前衛芸術が本来保持していた制度への敵対性が、制度の内部構造に吸収される事態を示している(Bürger, 1984: 57-82)。ボードリヤールが指摘するように、この制度化過程の背景には、資本主義社会が有する「差異の同化装置」としての側面がある(Baudrillard, 1970: 88-118)。市場は差異や逸脱を排除するのではなく、むしろそれらを積極的に取り込み、資本主義的価値へと転換することで自己を拡張していく。かつて異端とされた音が「現代音楽」「前衛芸術」としてジャンル化され、学術的アーカイヴに収められ、「聴取可能なもの」となってしまう構造がここに成立する(Bürger, 1984: 58-63)。さらに深刻なのは、この制度化が前衛の語彙そのものを資本の論理に従属させることである。「革新性」「実験性」「先進性」といった前衛の価値は、文化産業における商品差別化の戦略として機能し、「前衛」であることそのものが一種の商品価値と化している。ギー・エルネスト・ドゥボール Guy Ernest Debord(1931–1994)が示すように、資本主義はその対抗的実践すらもスペクタクル化し、自らの消費の対象へと転換する特殊な能力を持つ(Debord, 1967: 1-15)。マーク・フィッシャー Mark Fisher(1968–2017)が「資本主義リアリズム(capitalist realism)」として概念化したように、現代においては資本主義の終焉を想像することのほうが、世界の終焉を想像することよりも困難である(Fisher, 2009: 1-9)。この状況において、前衛音楽の批評的可能性を主張することは、ナイーヴな楽観主義か、あるいは無意識的な制度への共犯を意味するのだろうか。本稿は、この問いに安易な肯定的回答を与えることを拒否しながら、それでもなお批評的可能性の条件を探求する。

◆第三章 制度内批評の理論的可能性——戦略的距離と遅延の政治学

 前章で確認した制度化の逆説は、前衛の可能性を閉じるのではなく、むしろその条件の再定義を要求する。本章では、制度内批評の理論的可能性を検討し、「戦略的距離」と「遅延の政治学」という二つの核心概念を導出する。

3.1 アドルノの否定弁証法——非同一性の維持という戦略とその限界

 アドルノの「否定弁証法(Negative Dialektik)」は、制度化された状況においても前衛性を持続させる理論的手がかりを提供する(Adorno, 1973: 3-26)。アドルノが展開した「非同一的なもの(das Nichtidentische)」の概念は、制度的同化に抗する思考の可能性を理論的に基礎づける。真の批判的思考とは、対象を既存の概念枠組みに還元することを拒否し、概念と対象の間に残存する「非同一性」を維持し続けることにある。この否定弁証法の音楽美学への適用が、『美学理論(Ästhetische Theorie)』における「美的仮象(ästhetischer Schein)」概念である(Adorno, 1997: 1-15, 104-124)。アドルノによれば、真の芸術作品は現実との和解を拒否し、現存する社会の矛盾を暴露する「否定性」を保持する。この否定性こそが、制度化された状況においても前衛性を持続させる核心的要素である。しかし、アドルノ的否定弁証法の限界を明確に指摘することが必要である。アドルノの理論は、しばしば高度に自律化された「難解な」芸術を批評性の担保とする傾向を持つ。これは、批評性を特定の美学的様式——具体的には西洋近代音楽の高度技術的発展形態——と同一視するという、それ自体が制度的な操作である。批評性は特定の音楽様式に固有の属性ではなく、聴取の実践と社会的文脈との関係の中で生成されるものである。この制度的偏向は、アドルノの理論がシェーンベルクを批評性の規範として設定し、ジャズや大衆音楽を批評性の欠如として退ける際に最も鮮明に現れる。この点において、アドルノの美学は理論的に乗り越えられなければならない——しかも、その乗り越えはアドルノの否定弁証法の論理をアドルノ自身に適用することによって、すなわちアドルノの理論とアドルノの理論の適用の間の「非同一性」を維持することによって、初めて可能になる。

3.2 ドゥルーズ=ガタリの資本主義論——逃走線と遅延の政治学

 アドルノの否定弁証法だけでは、現代資本主義の動的性格を十分に捉えられない。ここで補完的に導入すべきなのが、ドゥルーズとガタリの資本主義分析である。彼らが『アンチ・オイディプス(L’Anti-Œdipe)』および『千のプラトー(Mille Plateaux)』において展開した資本主義論は、前衛の戦略的可能性を理解する上で決定的である(Deleuze & Guattari, 1972: 139-271; 1980: 580-599)。彼らによれば、資本主義は「脱コード化(décodage)」と「再領土化(reterritorialisation)」という二重の運動によって機能する。資本主義は伝統的コードを破壊し流動化させる(脱コード化)が、同時にそれを貨幣という抽象的コードのもとに再統合する(再領土化)。この双重運動は、単純な支配と抵抗の二項対立を解体する。前衛が新たなコードを生み出すと、資本主義はそれを脱コード化しながら再領土化する——「前衛」という差異そのものを商品として消費する。しかし、脱コード化と再領土化の間には本質的な時間的ズレが存在する。この時間的間隙こそが、「逃走線(ligne de fuite)」が生成される空間である(Deleuze & Guattari, 1980: 9-37)。前衛音楽における「戦略的距離」とは、まさにこの時間的間隙を戦略的に利用する実践として理解されるべきである。これが「遅延の政治学(politics of delay)」の核心である。従来の前衛論が「どこに」位置するかという空間的メタファーに依拠してきたのに対し、本稿が提示するのは「いつまで」包摂を遅延させられるかという時間的メタファーへの転換である。デレク・ベイリー Derek Bailey(1930–2005)のフリー・インプロヴィゼーションは、この遅延戦略の好例である(Bailey, 1992: 138-142)。ベイリーの即興演奏は、反復不可能性を本質とするため、録音という商品化のプロセスに根本的に抵抗する。即興の核心的価値——偶然性、リスク、演奏者と聴衆の相互作用——は、録音によって完全には捕捉されない。この捕捉不可能性が、商品化の遅延を生み出す。しかし、この遅延も永続的ではない。「フリー・インプロヴィゼーション」というジャンルが確立し、ベイリーの録音が「ドキュメント」として流通するとき、遅延の政治学はその効力の一部を失う。この事実は、遅延戦略の限界を示すと同時に、それが繰り返し更新されなければならない理由を示している。遅延の政治学は一回的な解決策ではなく、制度化の速度と批評的実践の速度との間の持続的な緊張として理解されなければならない。

3.3 セルトーの戦術論——制度の内部における微細な逸脱

 セルトーが『日常的実践のポイエティーク(L’invention du quotidien)』で展開した「戦術(tactique)」概念は、微細な実践の理論的基盤を提供する(de Certeau, 1980: 57-63)。セルトーは「戦略(stratégie)」と「戦術」を明確に区別する。戦略とは、固有の場所を持つ権力主体が行使する計画的行為である。それに対して戦術とは、固有の場所を持たない主体が、他者の領域内で展開する即興的行為である。前衛音楽における「微細な実践」は、まさにこの戦術の論理に従う。それは制度を正面から攻撃するのではなく、制度の内部で微細な逸脱を累積させる。ヘルムート・フリードリヒ・ラッヘンマン Helmut Friedrich Lachenmann(1935–)の実践はこの戦術の好例である。ラッヘンマンは、クラシック音楽の制度的枠組みを維持しながら、その内部で楽器の「誤用(Musique concrète instrumentale)」を通じてノイズを導入し、美的カテゴリーを撹乱している(Lachenmann, 2004: 91-102)。彼の音楽は、通常の演奏会という制度空間で演奏されるが、その内部で楽器奏法の慣習を根本的に問い直す。この戦術的実践は、制度を破壊するのではなく、制度の内部から制度の前提を可視化する。セルトーの戦術論とドゥルーズ=ガタリの逃走線論の間には、重要な接点と差異が存在する。どちらも制度の外部という純粋空間を拒否し、制度の内部における潜在的な隙間に注目する点で一致する。しかし、セルトーの戦術が固有の場所を持たない主体の機動性に焦点を当てるのに対し、ドゥルーズ=ガタリの逃走線はより根本的な欲望の流れの変容に関わる。前衛音楽における批評的実践は、この二つの論理を同時に活用する——演奏会場という制度空間を逃走線の一時的な触媒として活用しながら(セルトー的戦術)、その使用を通じて聴取欲望の回路そのものに介入する(ドゥルーズ=ガタリ的逃走線)という複合的な運動として。

3.4 ランシエールの感性の分割——聴取の境界を引き直す政治

 ランシエールが展開した「感性の分割(partage du sensible)」は、前衛音楽の批評的機能の最も根源的な次元を理論化する(Rancière, 2004: 7-19)。ランシエールによれば、政治とは感覚可能なものの分割——何が見えるもので何が見えないものか、何が聞こえるもので何が聞こえないものか——の境界を再構成する実践である。この定義において、前衛音楽の批評的機能は本質的に政治的である。制度は常に「何を音楽と見なすか」「何を音と認識するか」といった境界線を引くことで、感覚の領域を規定しようとする。前衛音楽の実践はこの境界において生起するノイズ、不確定性、断絶、逸脱といった要素を通じて、聴取感覚の自明性を撹乱する(Adorno, 1997: 315-334)。この撹乱が、前衛音楽の批評的機能の最も持続的な源泉である。なぜなら、感覚の分割の再構成は、作品の革新性よりも深い次元——聴取主体の知覚様式そのもの——において機能するからである。ここから本稿の核心的テーゼが導かれる。前衛音楽の批評性は、作品や様式の革新性にあるのではなく、聴取という行為に刻まれる「感覚の不可逆的変容」にある。一度ノイズを美として経験した耳は、完全には元の状態に戻らない。この感覚の記憶の累積こそが、資本の包摂力に対する最も根源的な抵抗である。そして、この感覚の不可逆的変容こそが、「遅延の政治学」の時間的次元に具体的な内容を与える。資本による包摂が完成するとき、それは外的な制度的変化として起こるのではなく、聴取主体の感覚構造に刻み込まれた変容が資本の論理に組み込まれる——つまり「前衛的感性」そのものが商品化される——という形で起こる。この包摂を遅延させることは、感覚の変容を資本化から守ることである。

◆第四章 聴取の問い直しとしての前衛実践——シェフェールとシュトックハウゼンの批判的分析

 前章で論じた理論的枠組みを、シェフェールとシュトックハウゼンという二人の作曲家の実践に適用する。本章における分析の方法論的原則として、以下の点を明示しておく。各作品の分析は、「遅延の政治学」「感性の分割の再構成」「戦略的距離」という本論の核心概念と明示的に接続される。事例が理論の「例証」として消費されるのではなく、事例と理論が相互に問い直し合う関係として提示されることを目指す。この方針は、前稿の評者が指摘した「事例分析と理論の非対称性」への応答である。

4.1 シェフェールの具体音楽——還元的聴取と感性の分割の再構成

 フランスの作曲家シェフェールは、「ミュージック・コンクレート(musique concrète)」の創始者として知られるが、彼の試みの本質は新技術の導入ではなく、音楽の認識論的基盤を揺るがすラディカルな挑戦にあった(Schaeffer, 1966: 77-95)。シェフェールは1948年の《エチュード・オ・シュマン・ド・フェール(Étude aux chemins de fer)》を皮切りに、既存の楽譜や記譜、演奏といった伝統的構造をすべて解体し、「録音された音」そのものを素材として扱うという逆転の発想を提示した。従来の音楽制度においては、楽譜が音楽の「存在」を規定し、演奏はその「現実化」として位置づけられていた。しかしシェフェールの具体音楽においては、録音された音響事象そのものが音楽の「存在」となり、楽譜や演奏という媒介項は消失する。この逆転は、単なる技術的革新ではなく、音楽存在論の根本的な再構成である。ランシエールの用語で言えば、これは「音楽的なもの」と「非音楽的なもの」の間に引かれていた感性の分割の境界線を、根底から引き直す実践である。列車の音、街の騒音、金属音——これらはそれまで「音楽の外部」に位置づけられていたが、シェフェールの実践はそれらを「音楽の内部」へと移行させることで、感覚可能なものの領域全体を再編成する。シェフェールが導入した「還元的聴取(écoute réduite)」の概念は、この転回の核心を成す(Schaeffer, 1966: 208-230)。これは、音の発生源や意味的内容からいったん距離を取り、音そのものの音響的性質に集中するという、エドムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール Edmund Gustav Albrecht Husserl(1859–1938)的現象学に通じる態度である。列車の音を「列車の音」として聴くのではなく、その音響的質——音色、音高の変動、持続のパターン——そのものに注意を向けること。この聴取の現象学的変容が、シェフェールの批評的実践の核心である。シェフェールが『音楽的対象論(Traité des objets musicaux)』(1966年)で詳細に展開した「音楽的対象(objet musical)」の理論は、この批評的実践の理論的基盤を提供している(Schaeffer, 1966: 245-270)。音楽的対象とは、還元的聴取によって構成される音響的単位である。それは物理的音響でも心理的感覚でもなく、聴取という意識作用と音響現象の相関において成立する現象学的対象である。ここで「遅延の政治学」の観点から、シェフェールの実践の批評的射程を評価する必要がある。シェフェールの具体音楽が最初に発表された1948年において、それは制度的に「音楽」として認識不可能な実践であった。この認識不可能性こそが、資本による包摂を遅延させた最初の要因である。しかし、1966年の『音楽的対象論』の出版は、その実践を「理論」として定式化し、「音楽学」の枠内に収める操作でもあった。シェフェール自身がこの定式化に携わったという事実は、前衛的実践者がしばしば自らの実践の制度化に加担するという逆説を示している。しかし、シェフェールの実践における緊張関係を看過することはできない。還元的聴取の方法論は、現象学的な「純粋聴取」への志向を持つが、この純粋性はそれ自体として問題含みである。音から文脈を剥奪し、純粋な音響的質として聴取することは、音楽の社会的・歴史的次元を括弧に入れることを要求する。この操作は、音楽の政治性を解消するのではなく、それを不可視化する危険を孕む。シェフェールの具体音楽の批評的力は、まさにこの緊張——日常の音を芸術として提示することの政治性と、純粋音響への志向の非政治性——の間に存在する。この緊張は解消されるべきではなく、維持されるべきものである。なぜなら、この緊張こそが、シェフェールの実践が今日においてもなお批評的問いを提起し続ける理由だからである。

4.2 シュトックハウゼンの電子音楽と空間音楽——感性の分割と遅延の政治学の実践

 シュトックハウゼンの実践は、より包括的な時間・空間・人間の秩序そのものへの干渉として展開された(Stockhausen, 1989: 15-35)。その批評的実践を理解するためには、技術的革新の背後にある、聴取の時空間的構造への根本的問いかけを追跡する必要がある。ここでは、各作品を「感性の分割の再構成」と「遅延の政治学」という二つの理論的軸から分析する。シュトックハウゼンの電子音楽作品《習作I(Studie I)》(1953年)、《習作II(Studie II)》(1954年)は、純粋に電子的に合成された音響による最初の作品群として音楽史に記録されている(Stockhausen, 1989: 110-145)。これらの作品は「感性の分割の再構成」という観点から評価されるべきである。《習作I》において、純正律の倍音関係に基づく音高構造が極めて精密に電子的に合成されることで、聴取者は従来の調性的聴取習慣では把握困難な微細な音程関係に直面する。これは単なる技術的困難ではない。従来の感性的分割において「音楽」として知覚可能であった領域の境界が、まさにその境界上に置かれることで、「音楽的なもの」を成立させていた知覚の枠組みそのものが問われる。《習作II》では、音色と音高の境界そのものが問い直されることで、感性の分割のより深い次元——楽器音と雑音の境界——が撹乱される。「遅延の政治学」の観点から見れば、これらの電子音楽作品は独自の遅延機制を持っていた。電子音楽は楽器演奏という身体的媒介を完全に排除するため、演奏家・作曲家・楽器産業という制度的連鎖から根本的に切断されていた。これが最初の遅延要因である。しかし同時に、電子音楽はケルン放送局(WDR)という制度的インフラに依存していた。この依存関係は、制度なしには存在できないが制度を変容させるという「批評的寄生」の構造を、その発生の瞬間から帯びていたことを意味する。シュトックハウゼンの空間音楽の構想を実現した《グルッペン(Gruppen für drei Orchester)》(1955–57年)は、三群のオーケストラを舞台上に三方向に配置し、音響の空間的移動を作品の構造原理とした作品である(Stockhausen, 1989: 200-235)。この作品の批評的射程は、その空間的革新の分析を通じて初めて明らかになる。演奏会という制度空間において、聴取者はつねに正面に向かって座り、演奏者と聴衆の間に明確な境界線が引かれる。この配置は、感性の分割の空間的次元を固定する制度的規律である。《グルッペン》がこの配置を根底から変容させることで、実現するのは単なる音響効果の多様化ではない。聴取主体の空間的位置づけそのものが問い直されることで、「どこから聴くか」という問いが「何が聴かれるか」という問いと不可分に結びつく。すなわち、聴取位置の変容が感覚可能なものの変容を引き起こすという「感性の分割の空間的再構成」が達成される。晩年のオペラ・サイクル《光(LICHT: Die sieben Tage der Woche)》(1977–2003年)は、シュトックハウゼンの前衛的実践が制度との複雑な関係を持ち続けたことを示している(Stockhausen, 1989: 250-275)。《光》シリーズの各作品は、従来のオペラという制度的枠組みを維持しながら、その内容を根本的に転換している。しかし、ここで遅延の政治学の観点から批判的に問わなければならないことがある。《光》シリーズは、その壮大さゆえに制度的支援なしには実現不可能であり、その完成には26年を要した。この長大な制作期間は、制度との共犯関係を深めると同時に、制度による包摂を——その規模の大きさゆえに——遅延させた側面もある。《光》が完結した2003年においても、そのサイクル全体を一覧する聴取経験は実質的に不可能であり続けた。この聴取の原理的不完結性こそが、《光》シリーズにおける最後の批評的残余として機能している。

4.3 二人の作曲家の批評的構造の比較と限界の自覚

 シェフェールとシュトックハウゼンの実践に共通するのは、制度的にコード化された聴取をいったん宙吊りにし、その空隙に新たな感覚の経験を立ち上げようとした点である。シェフェールは日常の音の中に芸術の可能性を見出すことによって、芸術概念の閉域を開放し、聴取を再政治化した。シュトックハウゼンは音を「超人間的な力」として再定義することにより、人間中心主義的な音楽制度そのものを相対化した(Stockhausen, 1989: 250-275)。しかし、この評価は無条件ではない。第三章で論じた「遅延の政治学」の観点から見れば、両者の実践はいずれも——シェフェールの理論化(1966年)とシュトックハウゼンの制度依存(WDR、バイロイトの国際音楽祭等)において——制度化への歩みを自らが踏み出している。この自己制度化の動きは、批評的実践の内部矛盾として記録されなければならない。どちらの作曲家も、「音とは何か」「音楽とは誰のものか」という問いに真正面から対峙した。しかし同時に、その問いかけが特定の制度的文脈(西ヨーロッパ、20世紀後半、国立放送局と大学の支援体制)の内部からのみ可能であったという事実は、次章で論じる地政学的問題に直接接続する。

◆第五章 制度の地政学と非中心的前衛の可能性——「複数の前衛性」に向けて

 前章で検討したシェフェールとシュトックハウゼンの実践は、主として西ヨーロッパという「中心」から発された前衛の事例であった。グローバル資本主義の現代において、前衛の可能性を包括的に考察するためには、より広い地政学的視座が必要である。そして、この地政学的視座は単なる「多様性の確認」ではなく、前衛概念そのものの批判的再定義を要求する。

5.1 サイードのオリエンタリズム論と音楽制度の権力構造

 エドワード・ワディ・サイード Edward Wadie Said(1935–2003)が『オリエンタリズム(Orientalism)』において明らかにしたように、西洋的知識の権力構造は、文化的表象を通じて他者を支配する巧妙なメカニズムを含んでいる(Said, 1978: 1-28)。音楽の領域においても、同様の権力構造が作動している。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリーは、中立的な分類ではなく、特定の文化的ヒエラルキーを前提とした権力装置である。したがって、「どこで前衛であるか」「誰に対して前衛であるか」という地政学的問題を抜きにして、現代における前衛を論ずることはできない。前衛概念そのものが西ヨーロッパ的近代性の産物であり、その概念を無批判に普遍化することは、文化的帝国主義に加担することになりかねない。ホミ・キリアン・バーバ Homi Kiran Bhabha(1949–)が問うように、西ヨーロッパの周縁、あるいはその外部に位置づけられる主体にとって、前衛であることはどのように可能なのか(Bhabha, 1994: 85-92)。

5.2 武満徹の事例——「理解可能性の罠」と本質主義的受容

 武満徹 Takemitsu Tōru(1930–1996)や細川俊夫 Hosokawa Toshio(1955–)といった東アジア出身の作曲家が、欧州の現代音楽界において高い評価を得たことは事実である。しかし、その評価はしばしば「異質な文化的出自をもった者が、制度の様式を巧みに習得した」という物語の中に位置づけられやすい。武満の《ノヴェンバー・ステップス(November Steps for biwa, shakuhachi and orchestra)》(1967年)の受容過程では、「東洋的神秘性」や「日本的美意識」といった本質主義的言説が前景化し、武満の音楽的思考の複雑さは単純化されがちであった。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァック Gayatri Chakravorty Spivak(1942–)が「サバルタンは語ることができるか?(Can the Subaltern Speak?)」で提起した問題は、この文脈において重要である(Spivak, 1988: 271-313)。周縁化された主体の発話は、支配的言説の枠組みの中でのみ「理解可能」となるが、その理解可能性こそが発話の批評性を中和してしまう。武満の音楽が西洋の制度内で「理解可能」となる瞬間に、その批評性の一部は失われる。これが「理解可能性の罠」である。この罠は遅延の政治学の地政学的次元として理解できる。西洋の制度が非西洋の前衛を「理解可能」なものとして包摂する速度は、西洋の前衛を包摂する速度より必ずしも遅くはない。むしろ、「異文化性」というラベルは包摂を加速させる——それが「前衛」というジャンルの地政学的差別化戦略として機能するからである。スラヴォイ・ジジェク Slavoj Žižek(1949–)が指摘するように、真に前衛的であるとは、既成の文化的カテゴリーに従うことを拒否し、資本主義が前提としている時間観、空間観、聴取観そのものに介入していくことである(Žižek, 1989: 33-55)。それは単なる異文化的表象の導入ではなく、制度作用のなかで政治性の実践可能性を再構成するような批評的姿勢を要求する。

5.3 マセダとバーバの「第三空間」——非中心的前衛の理論的枠組み

 バーバが『文化の場所(The Location of Culture)』で展開した「第三空間(third space)」概念は、この批評的実践の理論的枠組みを提供する(Bhabha, 1994: 36-39)。第三空間とは、支配的文化と従属的文化の単純な対立を超えた、新たな意味生産の場である。フィリピンの作曲家ホセ・モンセラート・マセダ José Montserrat Maceda(1917–2004)による音楽実践は、この第三空間の音楽的実現として理解できる(Maceda, 1986: 11-53)。マセダの《ウグナヤン(Ugnayan, for 20 Radio Stations)》(1974年)は、20台のラジオ、声、ガンサ(青銅製ゴング)を用いた大規模なサウンド・インスタレーションである。この作品では、ラジオから流れる現代的音響情報と、ガンサの伝統的音響が同一空間で展開されるが、それらは調和的に統合されるのではなく、相互に干渉し合う異質な音響層として配置されている。マセダの実践における遅延の政治学を分析するとき、西洋の前衛とは異なる独自の構造が現れる。西洋の前衛が制度の内部からの脱コード化を試みるのに対し、マセダの実践は制度の外部から制度の境界そのものを問う。ガンサという伝統的楽器は「民族音楽」として「現代音楽」の外部に分類されていたが、マセダの実践はこの分類の恣意性を、分類の境界を横断することによって暴露する。この暴露が「理解可能性の罠」を回避するのは、それが「東洋的神秘性」としての統合ではなく、干渉と摩擦——すなわち解釈を拒む音響層の並置——として展開されるからである。マセダの実践が重要なのは、それが「伝統と現代の融合」という本質主義的物語に回収されることを積極的に回避しているからである。異質な音響層の干渉は、いかなる統合的解釈も拒否する。これが、マセダの実践における「理解可能性の罠」への抵抗策である。

5.4 非中心的前衛の実践と「複数の前衛性」

 マックス・ニューハウス Max Neuhaus(1939–2009)による《タイムズスクエア(Times Square)》(1977–1992、2002–)は、ニューヨークのタイムズスクエアの地下に設置された音響装置が、都市の騒音と微細に混合する持続音を放出し続ける作品である。この作品は、美術館やコンサートホールという制度空間を完全に迂回し、都市生活者の日常的移動の中に音楽的経験を挿入する。感性の分割という観点からは、《タイムズスクエア》は「音楽的空間」と「非音楽的空間」という制度的区分そのものを解体する試みとして理解できる。この解体が持続的であるのは、作品が日常空間に恒久的に設置されているからである——この「遅延の永続化」という逆説的戦略が、《タイムズスクエア》の批評的独自性をなしている。記譜法そのものの脱構築を通じて、時間・主体・作品といった西洋的作曲概念に揺さぶりをかける動向も見出せる。アール・ルイス・ブラウン Earle Louis Brown(1926–2002)の「オープン・フォーム(open form)」やモートン・フェルドマン Morton Feldman(1926–1987)の図形楽譜は、演奏者の解釈的自由度を拡張することで、作曲家の権威を相対化した(Brown, 1986: 180-201; Feldman, 2000: 1-15)。しかし、非中心的位置からの前衛的実践は、単に「多様性」や「多文化主義」の名のもとに称揚されるべきではない。そのような称揚は、しばしば既存の権力関係を温存し、真の批評性を無害化する効果を持つ。必要なのは、地政学的権力関係を明確に意識しながら、その関係そのものを変容させる実践である。「複数の前衛性」の提唱は、前衛の相対化ではなく、その批評的深化を意味する。そして、「複数の前衛性」は「批評的普遍主義」によって補完されなければならない——すべての前衛的実践が等価に批評的であると主張することは批評の概念を空洞化させ、各実践の批評的有効性を、その具体的な社会的・歴史的文脈において評価する姿勢が要求される。

◆第六章 音のあわい——制度化を逃れる感覚の場の現象学

 前衛音楽とは、資本主義の内側に居ながらも、つねに資本の論理を横滑りし、音と沈黙の「あわい(間)」に新たな感覚の地平を開こうとする企てである。本章では、この「あわい」の空間がいかにして制度化を逃れる感覚の場として機能するかを、現象学的・美学的観点から検討する。

6.1 「あわい」概念の哲学的基盤——西田の批判的承継

 本稿において「あわい」概念を哲学的に基礎づける際、西田幾多郎(1870–1945)の「場所(basho)」概念を参照することには固有の困難が伴う。西田において「場所」とは、主客未分の純粋経験が分節化される以前の根源的な場である。それは単なる空間的容器ではなく、存在が生起する動的な関係性の場として理解される(西田, 1911: 9-25)。この概念は、本稿が論じる「あわい」——資本主義的分節化に先立つ感覚の根源的場——に哲学的奥行きを与えうる。しかし、西田哲学の承継には、単なる「危険の注記」では済まない批判的検討が必要である。西田の「場所」概念と「純粋経験」論は、1930–40年代において京都学派の政治哲学と接続され、「近代の超克」論や大東亜共栄圏のイデオロギー的基盤の一部を形成した歴史的事実がある。この歴史的文脈において、「場所」は西洋的近代性を超越する「東洋的精神」の哲学的根拠として機能させられた。この事実は看過できない。西田概念を批判的検討なしに援用することは、その概念を歴史的文脈から切り離す脱文脈化の操作であり、第五章で論じた「本質主義的回収」の一形態に陥る危険を持つ。したがって、本稿における「あわい」概念は、西田的「場所」概念を直接継承するのではなく、西田哲学のナショナリズム的接続を批判的に切断した上で、その現象学的核心——「分節化に先立つ根源的な関係性の場」という構造——のみを選択的に承継する。この操作は恣意的ではない。西田哲学における普遍主義的志向——特定の文化的ナショナリズムに回収されない、意識と存在の根源的構造の探求——を、その歴史的適用から分離して継承することは、ちょうど本稿がアドルノを「アドルノ自身に適用する」と述べたのと同じ意味での「批判的内在」である。さらに、この批判的承継は第五章の地政学的視座と接続される。「あわい」を「東洋的精神」の特権的表現として位置づけることを拒否し、資本主義的分節化一般に先立つ感覚の根源的場として理解することで、「あわい」概念は地政学的に中立な——つまり西洋的前衛にも非西洋的前衛にも等しく機能する——分析概念として再定義される。

6.2 メルロ=ポンティの身体現象学——聴取の余剰

 モーリス・メルロ=ポンティ Maurice Merleau-Ponty(1908–1961)の身体現象学は、この「あわい」の経験の構造を理解する上で決定的な重要性を持つ(Merleau-Ponty, 1962: 235-282)。メルロ=ポンティが『知覚の現象学(Phénoménologie de la perception)』で展開した「身体的主体」概念は、聴取の根源的な構造を明らかにする。聴取する身体は、音響世界との間に志向的関係を結びながら、同時にその音響世界によって触発される受動的存在でもある。この「能動性と受動性の絡み合い」が、制度的規律では完全に管理できない聴取の余剰を生み出す。さらに重要なのは、メルロ=ポンティの後期思想における「肉(chair)」概念である(Merleau-Ponty, 1968: 130-155)。肉とは、見るものと見られるもの、触れるものと触れられるもの、聴くものと聴かれるものの相互浸透的関係を指す。この肉の次元において、主体と客体の区別は曖昧になり、感覚は相互的で可逆的な過程として現れる。前衛音楽における「あわい」は、この肉の次元で生起する。そこでは、作曲家・演奏者・聴取者という制度的役割分担が溶解し、音響現象への参与的関与が成立する。この溶解は制度的規律が管理しえない感覚の次元であり、それゆえに「遅延の政治学」が依拠する根拠でもある。資本は「肉」の次元を直接商品化することができない——できるのは、その商品化に至る経路を整備することだけである。この経路の整備と商品化の間の時間的間隙こそが、前衛音楽の批評的可能性の最終的な根拠をなす。

6.3 ケージの《4分33秒》——制度への内在的批判としての沈黙

 ケージが《4分33秒》において提示したのは、単なる音の不在ではなく、「聴取すること自体」を音楽の主題へと転換させることであった(Cage, 1961: 109-127)。この転換によって、制度的に規定された「作品」や「演奏」という概念は解体され、聴取の出来事そのものが音楽となる。重要なのは、この作品がただ「沈黙」を提示しているわけではないという事実である。実際の演奏においては、演奏者の身体音、聴衆のざわめき、空調の音、外部からの騒音など、無数の音響が立ち現れる。ケージ自身は、この転換の意義を仏教的無我の思想と関連づけて理解していた(Cage, 1961: 8)。《4分33秒》の批評的射程をランシエールの「感性の分割」の観点から分析すると、この作品が達成するのは、「音楽的なもの」と「非音楽的なもの」の境界の一時的な解体ではなく、むしろその境界を引いていた「制度的分割の装置」そのものの可視化である。作品は制度を破壊するのではなく——演奏会という形式は完全に維持されている——、制度が普段は不可視化している前提(沈黙の強制、注意の方向、「音楽」という期待)を、まさにその前提を充足させないことによって露わにする。これはセルトー的な「戦術」——制度の場所を使いながら制度の論理を逸脱させる——の精緻な実践である。しかし、ケージの実践における批評的射程は、彼自身の意図を超える。《4分33秒》が「名作」として固定化されるとき、それは自らの批評性を失う危険を孕む。この逆説は、前衛的実践が直面する「成功の罠」として理解できる。批評的実践が受容されることによって批評性を失う——この逆説こそが、前衛を繰り返し更新することを要求する根本的理由である。

6.4 時間の脱構築——ライヒとフェルドマンの時間論的実験

 前衛音楽における「あわい」の空間は、時間的次元においても重要な変容をもたらす。スティーヴ・マイケル・ライヒ Stephen Michael Reich(1936–)のミニマリズムにおける極限まで単純化された素材の反復は、聴取者の時間感覚を撹乱し、「いま・ここ」に固定された時間意識を解体する(Reich, 2002: 22-30)。ライヒの《ピアノ・フェイズ(Piano Phase)》(1967年)では、二台のピアノが同じ旋律パターンを微細な速度差で反復する。この微細な差異によって、旋律の位相関係が徐々に変化し、新たなリズムパターンが浮上する。フェルドマンの異常に長大で静謐な楽曲は、この時間の質的経験をさらに極限まで推し進める(Feldman, 2000: 93-96)。フェルドマンの《弦楽四重奏曲第2番(String Quartet No. 2)》(1983年)は、約6時間の演奏時間を要する。この作品では、微細な音量と音色の変化が極めて緩慢なテンポで展開される。フェルドマン自身は、この経験を「時間の中に入ること」として記述している(Feldman, 2000: 95)。この時間的経験の脱構築は、日常的時間意識——生産性と効率性の論理によって管理された資本主義的時間感覚——への根本的な問いかけとして機能する。資本主義的時間は計量可能な単位として分割・交換・蓄積される時間であるが、フェルドマンの音楽は聴取者を、そのような分割に先立つ「あわい」の時間——純粋な経過としての時間——へと引き込む。これは、第三章で論じた「遅延の政治学」の最も根源的な実践形態の一つである。

6.5 身体性と聴取の倫理——ナンシー・レヴィナス・デリダ

 前衛音楽における「あわい」の空間は、身体性の次元においても重要な政治的含意を持つ。リュシアン(リュック)・ルイ・マルセル・フェラーリ Lucien (Luc) Louis Marcel Ferrari(1929–2005)による環境音の採集、ベイリーの廃墟での即興演奏、デイム・イヴリン・エリザベス・アン・グレニー Dame Evelyn Elizabeth Ann Glennie(1965–)などの聴覚障害を持つ身体による演奏——これらは、音楽制度の身体的前提を問い直す実践である(Bailey, 1992: 138-142; Glennie, 1990)。グレニーの打楽器演奏は、聴覚中心主義的な音楽概念を根本から問い直す。聴覚障害を持つグレニーは、音響を身体全体で感受し、振動の触覚的次元を音楽的表現の資源とする。この実践は、音楽制度が前提とする「正常な」聴取主体の概念を解体し、感性の分割の身体的次元を問い直す。ジャン=リュック・ナンシー Jean-Luc Nancy(1940–2021)が『聴くこと(À l’écoute)』で展開した聴取論は、この感覚の場を哲学的に明確化する(Nancy, 2007: 1-15)。ナンシーによれば、聴くことは見ることとは異なり、対象との距離を前提としない。聴取において、私は音響に包まれ、音響と共振する。この共振が、主体と客体の境界を溶解させ、新たな関係性を生成する(Nancy, 2007: 30-45)。エマニュエル・レヴィナス Emmanuel Levinas(1906–1995)の他者論は、この聴取の倫理的次元を理解する上で重要な手がかりを提供する(Levinas, 1969: 194-219)。レヴィナスが『全体性と無限(Totalité et infini)』で展開した「他者の顔(visage de l’autrui)」概念は、音楽における他者性の経験を理解する鍵となる。ジャック・マリー・エミール・デリダ Jacques Marie Émile Derrida(1930–2004)が『声と現象(La voix et le phénomène)』で展開した「現前の形而上学」批判は、前衛音楽における「現在性」の問題を考察する際の理論的基盤となる(Derrida, 1973: 60-87)。デリダによれば、音声は一見すると現前性の特権的媒体であるように見えるが、実際には「差延(différance)」の構造に貫かれている。前衛音楽における「あわい」とは、この差延の構造が最も鋭く経験される空間でもある。したがって、前衛とは、過去の革新の記録でも、未来の予言でもない。それは、現に「ここで・この身体で」立ち上がる、資本に触れながら資本を越境する、感覚の実践である。この実践において何が賭けられているかを問い続けること——それが前衛の批評的態度の核心である。

◆第七章 批評的言説の自己考察——本稿の制度的条件と介入の可能性

 本章は、本稿の論述そのものを批評的考察の対象とする試みである。前章までの議論が前衛音楽の制度的条件を批判的に分析してきたとすれば、本章では同じ批判的視線を本稿自体に向ける。これは単なる謙遜の身振りではない。本稿が論じる「批評的寄生」の実践は、本稿の形式においても実践されなければならない——さもなければ、本稿は前衛の批評性について論じながら、その批評性を欠如した制度的言説にとどまることになる。

7.1 本稿の制度的条件の内省的追跡

 本稿は、以下の制度的規律に従って執筆されている。学術論文の節構成(「はじめに」「各章」「結論」「参考文献」)、引用規則(著者名・発行年・ページ数の指定形式)、生没年を付した人名の正式表記、そして参考文献リストの書誌情報。これらは本稿が批判の対象とする「制度的規律」の産物である。この事実を「承認する」と宣言するだけでは不十分である。具体的に何が条件づけられているかを追跡する必要がある。まず、節構成について。本稿の六章(プラス本章)という構成は、問いの展開を「第一章から最終章へ」という累積的な論理展開として提示することを要求する。しかし、本稿が論じる「遅延の政治学」や「あわいの現象学」は、本来的に線形的な論理展開に抵抗する概念である。節構成という制度的形式は、本論の内容と形式の間に根本的な緊張を生じさせている。本稿はこの緊張を解消することなく、そのまま提示する——この緊張の維持が、本論が「戦術的実践」として採用する最も基本的な介入である。次に、引用規則について。引用括弧(著者名, 発行年: ページ数)という形式は、知識の生産を「個人的著者の業績の累積」として枠組みする制度的認識論を前提とする。ブルデューやデリダへの引用は、それらの思想を「引用可能な単位」として固定し、その思想が本来持つ動的・批評的性格を静的な「参照先」へと変換する操作を含んでいる。本稿が「Adorno, 1997: 315-334」と記載するとき、その記載は知識の制度的管理への服従を意味する。この服従は完全には回避できない。しかし、その服従が批評的言説を生産する条件である以上、服従の構造を可視化することが「批評的寄生」の実践となる。さらに、本稿の語彙について。「前衛」「批評性」「制度」「感性の分割」といった概念語は、主として西洋の学術言説の内部で流通する言語である。これらの概念語を用いて「複数の前衛性」を論じることは、「複数性」を一つの言語的枠組みで回収するという自己矛盾を含んでいる。マセダや武満の実践を「第三空間」「感性の分割」という西洋的理論概念で分析することは、第五章で批判した「理解可能性の罠」を本稿自体が再演するという逆説を生み出す。この逆説への応答として、本稿は「複数の言語的枠組みの並置」ではなく「単一の言語的枠組みの内部でその限界を問う」という戦術を採用している。これはより誠実ではあるが、より限定的でもある。

7.2 自己矛盾を超える実践的含意

 以上の内省的追跡は、本稿が制度的規律から完全に自由ではないことを示す。しかし、この不自由さは絶望の根拠ではなく、批評的実践の出発点である。第三章で論じたように、批評的寄生とは制度を破壊することではなく、制度の内部で制度の前提を可視化することである。本章の試みは、まさにこの可視化の実践として理解されるべきである。本稿が主張する「遅延の政治学」は、本稿自体においても機能していなければならない。学術論文という形式が持つ制度化の圧力——革新的な主張を「先行研究との対話」として枠組みし、「論証の完結」として提示することへの圧力——に対して、本稿が試みる遅延は以下の形をとる。第一に、結論を「解決」として提示するのではなく、残存する問いとして提示すること。第二に、本論の自己矛盾を解消するのではなく、追跡可能なものとして提示すること。第三に、本章のような自己考察を「付録」や「注記」ではなく、論文の中核的な一章として組み込むこと——これにより、自己批判を言説の外部へと排除する制度的操作に抵抗する。しかし、最後に率直に認めなければならない。本稿は、制度的学術言説という形式の枠組みの中で前衛の批評性を論じるという、根本的な緊張を最終的には解消していない。本章の自己考察もまた、学術論文の一章として制度的に枠組みされており、その枠組みは本考察の批評的効力を部分的に中和する。この中和は完全には防ぎえない。前衛音楽が制度の内部でのみ批評的でありうるように、前衛についての学術的言説もまた、学術制度の内部でのみ——そして部分的にのみ——批評的でありうる。この部分性の認識こそが、知的誠実さの核心であり、批評的実践の継続を可能にする条件である。

◆結論——感覚の不可逆的変容としての前衛と21世紀の条件

 本稿の考察を通じて明らかになったのは、前衛音楽の批評的可能性が、作品や様式の革新性にあるのではなく、聴取という行為に刻まれる不可逆的変容にこそ存在するという点である。以下では、本稿の主要な論点を統合し、21世紀における前衛の条件について考察する。

「批評的寄生」というテーゼ

 本稿が提示した「批評的寄生(critical parasitism)」という概念は、前衛と制度の関係を再定義する。前衛音楽は制度を破壊せずに撹乱する。この寄生的関係は、一見すると制度への妥協に見えるが、実際には制度の自己同一性を徐々に侵食し、制度そのものを別のものへと変容させる持続的介入である。寄生とは、宿主なしには生存できないが、宿主を変容させる関係性である。前衛音楽は制度なしには存在できないが、制度の内部でその限界を拡張し続ける。第七章で示したように、この「批評的寄生」は本稿の論述形式においても実践が試みられている——その成功の程度は限定的であるにせよ。

「遅延の政治学」の理論的貢献

 本稿の理論的貢献として強調すべきは、前衛の条件を時間論的に再定義したことである。従来の前衛論は空間的メタファー(前線、先端、周縁vs中心)に依拠してきたが、本稿が明らかにしたのは、前衛の本質が「遅延の政治学(politics of delay)」にあるという点である。前衛音楽の批評性は、空間的な「どこ」にあるかではなく、時間的な「いつまで」制度化を遅らせられるかにかかっている。この時間論的転換は、前衛の批評性が静的な属性ではなく、動的なプロセスであることを示す。さらに、この遅延の政治学は、感覚の不可逆的変容——一度刻まれた聴取の変容は完全には元に戻らない——という現象学的事実によって、その最終的な根拠を持つ。

「複数の前衛性」と批評的普遍主義

 地政学的考察から導かれるのは、「複数の前衛性(multiple avant-gardes)」という視座である。西洋中心的な単一の前衛史観を解体し、マセダやニューハウスのような非中心的実践を等価に位置づけることは、前衛概念の複数化を意味する。前衛の普遍理論は存在せず、あるのは状況依存的な批評的戦術の集積である。しかし、この複数化は相対主義を意味しない。すべての前衛的実践が等価に批評的であると主張することは、批評の概念を空洞化させる。必要なのは、各実践の批評的有効性を、その具体的な社会的・歴史的文脈において評価する「批評的普遍主義」である。

「聴取の債務」という倫理的概念

 最終的に提起すべきは、「聴取の債務(debt of listening)」という倫理的概念である。現代の前衛音楽家は、過去の前衛が開いた聴取可能性の上に立っている。ケージ以後、我々はもはやケージ以前の耳では聴けない。我々は過去の前衛から受け取った感覚的遺産を引き継ぎ、それを未来へと伝達する責任を負う。前衛音楽家の倫理的課題は、受け取った遺産を反復することなく継承し、固定することなく伝達するという逆説的実践にある。

21世紀デジタル資本主義における新たな挑戦

 ただし、21世紀のデジタル資本主義において、本稿が論じた「遅延の政治学」は新たな挑戦に直面している。アルゴリズムは瞬時に新たな実践を捕捉し、分類し、推薦し、市場化する。生成AIは、人間が「実験的」と認識する音楽を学習し、無限に生成できる。この状況において、「戦略的距離」の維持は、20世紀とは比較にならない困難を伴う。しかし、この困難の認識こそが、新たな批評的実践の出発点となる。完全な包摂が実現された世界において、なお抵抗の可能性を探ること。これが、21世紀における前衛の最も困難で、最も切実な課題である。

◆結語——残存する問いとして

 本稿は、前衛音楽の批評的可能性についての一つの解答ではなく、その問いの継続的な開き方を提示しようとした。第七章で認めたように、本稿自体が制度的条件によって部分的に限定された言説である。この限定を超えるためには、本稿の論述を批判的に受け取り、それを新たな実践の出発点とする読者の参与が必要である。前衛音楽の真の可能性は、テキストの内部にあるのではなく、テキストと読者の間の——あるいは音楽と聴取者の間の——「あわい」において、静かに、しかし確実に、開かれ続けるのである。

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