A Treatise on the Condition of ‘Avant-Garde Music’ in Late Capitalist Society
2025/July/8
水谷晨
◆要旨
本稿は、後期資本主義社会における前衛音楽の批評的可能性について包括的に考察する。21世紀の今日、前衛音楽は資本主義的制度に取り込まれ、その批評的機能を退化させているように見える。しかし本論では、制度内部における微細な実践を通じて、前衛音楽がなおも批評的機能を持続させることが可能であると論じる。その核心的条件は、資本主義との批判的距離を保ちながら、「聴取そのもの」を問い直す実践にある。本稿では、ピエール・アンリ・マリー・シェフェール Pierre Henri Marie Schaeffer(1910–1995)とカールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen(1928–2007)の実践を中心的事例として、聴取の根源的問い直しこそが前衛音楽の持続的な批評性の源泉であることを明らかにする。さらに、制度の地政学的問題、感覚の政治学、そして現代における前衛の倫理的条件についても詳細に検討し、前衛音楽が単なる様式的革新ではなく、社会的実践としての倫理的、政治的態度であることを論証する。
◆はじめに——問題設定と本稿の目標
本稿の中心的問いは、後期資本主義社会において前衛音楽がいかなる批評的機能を持続しうるのか、という点にある。この問いの背景には、20世紀前半に展開された前衛音楽の多くが、現在では教育機関、文化財団、公共助成といった制度的枠組みに取り込まれ、その革新的・政治的性格を希薄化させているという現実がある。しかし、この事実をもって前衛音楽の可能性を全面的に否定することは適切ではない。むしろ問題は、この様に前衛音楽が制度に取り込まれた(※以下「制度化」という。)状況においても、なお前衛音楽が批評的機能を持続させる条件とは何かを明らかにすることである。この中心的問いに答えるため、本稿では以下の五段階にわたる論証を行う。第一に、前衛概念の歴史的変遷を追跡し、上に挙げた「制度化」への軌跡を明らかにする。第二に、資本性生産社会の制度内における批評の理論的可能性を検討し、前衛性持続の条件を抽出する。第三に、具体的な作曲家の実践を通じて、「聴取の問い直し」という批評的実践の可能性を実証する。第四に、制度の地政学的問題を視野に入れ、非中心的前衛の可能性を探る。第五に、感覚の政治学という観点から、制度化を逃れる感覚の場の生成について考察する。
◆本論における「制度」概念の理論的定義
本論を展開するにあたり、中心概念である「制度 institution」および「制度化 institutionalization」について、その理論的射程を明確にしておく必要がある。本稿における「制度」は、単一の意味内容に還元されない複合的な概念として理解される。
第一に、制度とは物質的・組織的基盤を指す。具体的には、芸術大学、音楽院、コンサートホール、音楽祭、助成財団、レコード会社、配信プラットフォーム、批評メディアなど、音楽の生産・流通・受容を可能にする物理的・経済的インフラストラクチャーである。これらは資本主義経済システムに深く組み込まれており、音楽実践の物質的条件を規定する。作曲家は助成金によって創作し、演奏家はホールで演奏し、聴衆はチケットを購入することで音楽に接する。この物質的基盤なしには、現代における音楽実践は成立しえない。
第二に、制度とは象徴的・認識論的枠組みを意味する。制度は単なる物理的空間ではなく、価値、正統性、権威が生産され配分される象徴的空間である。「何が音楽か」「何が芸術的価値を持つか」「誰が作曲家として認められるか」といった判断基準は、制度的承認のメカニズムを通じて社会的に構築される。音楽大学の教授陣が定めるカリキュラム、批評家が用いる評価言語、音楽祭が選定する作品——これらすべてが、何を「音楽」と見なすかの境界線を引いている。この象徴的次元において、制度は美学的カテゴリー、ジャンル分類、正典形成、批評言説などを包含する。例えば「前衛音楽」というカテゴリー自体が、制度によって構築された分類であり、そこには特定の美学的価値観と歴史観が埋め込まれている。
第三に、制度とは聴取と感覚の編成原理である。制度は単に音楽を管理するのではなく、聴取主体そのものを生産する装置として機能する。何を「音楽的」と感受し、何を「雑音」として排除するか、どのような時間感覚で音楽を経験するか、どのような身体的態度で聴取するか——これらは制度によって形成された知覚の様式である。演奏会場における静粛の規範、楽章間の拍手の禁止、録音における編集の慣習——これらはすべて、特定の聴取様式を強制する制度的規律である。制度は感覚可能なものの境界を画定し、知覚の政治的秩序を維持する。我々が「美しい」と感じる音、「不快」と感じるノイズの区別は、自然な感覚ではなく、制度的訓練によって内面化された判断なのである。
第四に、制度とは歴史的に形成された権力関係を体現する。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリー自体が、西洋中心主義的な文化ヒエラルキーを前提としている。これらの用語は中立的な分類ではなく、特定の地域(西ヨーロッパ)の音楽実践を普遍的規範として位置づけ、他の地域の音楽を「民族音楽」「伝統音楽」として周縁化する権力装置である。制度は地政学的権力構造と不可分であり、中心と周縁、普遍と特殊、正統と異端といった非対称的関係を再生産する。主要な音楽祭が西ヨーロッパと北米に集中し、アジア・アフリカ・南米の作曲家が「国際的」舞台に参入するためには西洋的様式の習得が事実上要求される——この構造そのものが、制度の権力性を示している。したがって、制度を論じることは、必然的に植民地主義の歴史的遺産と現在的作動を問うことを含意する。
本稿における「制度化 institutionalization」とは、これら四つの次元における包摂のプロセスを指す。具体的には、(1) かつて周縁的・実験的であった音楽実践が、教育課程、演奏会シリーズ、助成対象として公式化されること、(2) 前衛的語彙が学術的分析や批評言説において定型化されること、(3) 逸脱的な聴取様式が「現代音楽の聴き方」として規範化されること、(4) 非西洋的・非中心的実践が「多様性」の名のもとに西洋的制度内に配置されること、である。重要なのは、この制度化が必ずしも悪意ある抑圧ではなく、むしろ「承認」「保存」「教育」という善意の実践を通じて進行することである。音楽大学が前衛音楽を教えることは、その保存と継承に貢献する。しかし同時に、前衛音楽を「教えうるもの」として定型化し、その批評的鋭さを鈍化させる。助成制度が実験的作品を支援することは、創作の自由を拡大する。しかし同時に、「助成に値する実験性」という新たな規範を生み出し、より根源的な逸脱を排除する。後期資本主義は対抗的実践を排除するのではなく、それを取り込み、差異そのものを商品化する。「前衛的であること」自体が、文化市場における商品価値として機能するようになる。この逆説こそが、現代における前衛の最大のジレンマである。
しかしながら、本稿は制度を一枚岩的な抑圧装置として単純化することを避ける。制度は内的緊張と闘争によって特徴づけられる動的な空間である。音楽大学内部にも、保守的教育と実験的教育の対立がある。助成制度内部にも、商業的成功と芸術的純粋性をめぐる価値対立がある。批評言説内部にも、制度的正統性と反制度的立場の緊張がある。したがって、制度内部には亀裂、矛盾、不均衡が存在し、それらは批評的介入の可能性を提供する。本稿が探求するのは、まさにこの制度の内的矛盾を利用した批評的実践の条件である。真の批判は、制度の「外部」という想定された純粋空間からではなく、制度の内部における戦略的実践として追求されなければならない。前衛音楽家も、現代の資本性生産社会の中で生活し、制度的支援を受けて創作し、市場で作品を発表する。完全な自律性という理念は、幻想である。したがって問題は、制度を全面的に拒否することではなく、制度との批判的距離をいかに維持し続けるかである。
この批判的距離とは、固定的な位置ではなく、動的な関係性として理解されなければならない。制度に完全に同化すれば批評性を失い、制度から完全に離脱すれば影響力を失う。必要なのは、制度との緊張関係を絶えず調整し続ける戦略的実践である。制度的承認を利用しながら、制度の前提を問い直す。制度的言語を用いながら、その言語の限界を露呈させる。制度的空間で活動しながら、その空間の規範を撹乱する。このような両義的実践こそが、現代における前衛の条件である。本稿で用いられる「制度」概念は、以上の複合的理解に基づいている。物質的基盤、象徴的秩序、感覚の編成、権力関係——これら四つの次元は相互に浸透し合いながら、音楽実践の条件を構成する。前衛音楽の批評的可能性を問うことは、これら四つの次元すべてにおいて、いかなる介入が可能かを探ることに他ならない。以下の論述では、この複合的な制度概念を前提としながら、後期資本主義社会における前衛音楽の持続的批評性の条件を多角的に検討していく。
本稿の基本的立場は以下の通りである。前衛音楽は確かに資本性生産社会の構造に包摂されているが、それは20世紀前半に多くの実験がなされた前衛性の完全な消失を意味しない。むしろ、資本主義の制度内部における戦略的実践を通じて、新たな形の批評性を創出することが可能である。その鍵となるのは、音楽の形式的革新や技術的新奇性ではなく、「聴取そのもの」を問い直し、感覚のコード化に介入する実践にある。この立場は、現代音楽を単なる技術的進歩や様式的多様性として捉える従来の見解とは根本的に異なる。本稿では、政治的・イデオロギー的視点から前衛音楽の可能性を考察し、その批評的機能の持続条件を理論的・実証的に明らかにする。私はこの主題に取り組むにあたり、現代の音楽実践を語る上で「中立的」な立場はありえず、むしろ政治的・イデオロギー的な視点からこそ、前衛の可能性を考察できると考える。この前提を明確にした上で、以下、論述を展開したい。
◆前衛概念の歴史的変遷——制度化への軌跡
前衛音楽の現在的状況を理解するためには、まず「前衛」概念そのものの歴史的変遷と、その被=包摂への軌跡を詳細に把握する必要がある。この歴史的考察は、単なる学史的整理ではなく、現代における前衛の可能性を判定するための理論的基盤を提供するものである。
前衛芸術の理論家として知られる社会学者ピーター・ラドウィグ・バーガー が書くように、「前衛 avant-garde(アヴァンギャルド)」という概念は、19世紀以降、単なる芸術的手法を超えて、歴史の推進力としての芸術の在り方を象徴するものであった (Bürger, 1984: 25-45)。歴史的にみても、「前衛」という元々は軍事用語であり、「前哨部隊」あるいは「先陣」を意味するこの言葉は、革命期フランスにおいて政治運動と結びつき、ついで芸術運動へと転用されていった (Poggioli, 1968: 3-8)。重要なのは、この転用過程において、前衛概念が本質的に政治的性格を帯びるようになったことである。サン=シモン派の社会思想家たちにとって、芸術家は社会改革の「先導者」としての役割を担うべき存在であり、その後のマルクス主義の理論においても、芸術は階級闘争と結びついた「上部構造=意識変革の武器」として位置づけられるようになる (Egbert, 1967: 339-366)。ここで前衛とは、単なる表現の新しさではなく、社会構造に対する批判的態度と不可分なものであった。この政治的次元こそが、前衛を単なる様式的革新から区別する決定的要素である。しかし、この象徴性は同時に前衛の資本への包摂に至る道筋をも準備した。前衛が社会変革のイデオロギーと結びつくことで、それは単なる個人的表現を超えた階級的意義を獲得する一方、その社会的意義ゆえに資本による包摂の対象ともなりえたのである。この逆説的構造——政治的であることが被=包摂を招く——は、前述した現代まで続く前衛の根本的ジレンマを形成している。
20世紀に入ると、西洋音楽による前衛はより複雑で多様な様相を呈するようになる。20世紀の西洋音楽に恐らく最も影響を与えたであろう哲学者テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ Theodor Wiesengrund Adorno(1903–1969)は次の様に述べる。アルノルト・フランツ・ヴァルター・シェーンベルク Arnold Franz Walter Schönberg(1874–1951)による十二音技法の確立、アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン Anton Friedrich Wilhelm von Webern(1883–1945)の点描的音響構造、アルバン・アリア・ヨハネス・ベルク Alban Maria Johannes Berg(1885–1935)の表現主義的語法——これらウィーン楽派の試みは、調性音楽の制度的基盤を根底から揺るがすものであった、とである (Adorno, 1997: 54-67)。しかし、より根源的な転回をもたらしたのは、戦後における音楽概念そのものの拡張である。ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア John Milton Cage Jr.(1912–1992)の偶然性の音楽、シェフェールの具体音楽、シュトックハウゼンの電子音楽——これらの実践は、音の素材そのものを問い直すラディカリズムを通じて、感覚の枠組みそのものを撹乱し、新たな知覚と思想の回路を提示してきた (Cage, 1961: 3-34)。ケージの《4分33秒 4’33″》(1952年)は、この根源的転回の象徴的事例である。この作品は、沈黙を音楽と呼ぶことによって、「音楽とは何か」という問いを聴取者に直接投げかけた。それまで背景とされていた環境音、聴衆のざわめき、空間の響きそのものが、作品の一部として浮上してくる。このとき、西洋音楽の19世紀以降の歴史において伝統的に規定された「作品」「演奏」「聴取」という概念は解体され、聴取の出来事そのものが音楽となる (Cage, 1961: 109-127)。重要なのは、これらの実践が単なる技術的革新ではなく、「音楽とは何か」「聴くとは何か」という根本的な問いと結びついて展開されたことである。前衛音楽の批評的機能は、新しい音響を提示することにあるのではなく、聴取という行為の在り方そのものを問い直すことにあった。この点において、20世紀前衛音楽は真に哲学的・政治的な実践であったと言える。
しかし、21世紀の現在、この批評的機能には重大な変化が生じている。美学の社会学において20世紀に大きな影響力を持った哲学者、ピエール・フェリックス・ブルデュー Pierre Félix Bourdieu(1930–2002)は後期資本主義的環境における文化の資本による包摂の結果、かつては周縁にあった前衛的実践が、むしろ文化資本として中心に取り込まれる現象が顕著となっている旨を述べる (Bourdieu, 1993: 29-73)。バーガー美術館に展示された反芸術、学術機関で研究される即興演奏、配信サービスでレコメンドされるノイズミュージック——これらは、前衛芸術が本来保持していた「制度化」への敵対性が、「制度化」の過程における内部構造に吸収される事態を示していると言える (Bürger, 1984: 57-82)。ここでフランスにおいて最もこの資本性生産社会における文化の在り方をラディカルに論じた哲学者ジャン・ノエル・ボードリヤール Jean Noël Baudrillard(1929–2007)を挙げる事が出来る。ボードリヤールの主張を「制度化」概念から敷衍すると以下の様になる。つまり、この「制度化」過程の背景には、現代資本主義社会が有する「差異の同化装置」としての側面がある、と捉えうるのである (Baudrillard, 1970: 88-118)。市場は差異や逸脱を排除するのではなく、むしろそれらを積極的に取り込み、資本主義的価値へと転換することで自己を拡張していく。バーガーによると、かつて異端とされた音が「現代音楽」「前衛芸術」としてジャンル化され、学術的アーカイヴに収められ、非政治的な分析対象として整理され、結果的に従来の西洋音楽の伝統における文脈にてもまた「聴取可能なもの」となってしまう構造がここに成立する (Bürger, 1984: 58-63)。さらに深刻なのは、この制度化が前衛の語彙そのものを資本の論理に従属させることである。「革新性」「実験性」「先進性」といった前衛の価値は、文化産業における商品差別化の戦略として機能し、「前衛」であることそのものが一種の消費社会における商品価値と化している。の価値を論じるにあたり、ギー・エルネスト・ドゥボール Guy Ernest Debord(1931–1994)の「スペクタクルの社会 La Société du spectacle」論を提示する必要があるだろう。ドゥボールが示すように、資本主義はその対抗的実践すらもスペクタクル化し、自らの消費の対象へと転換する特殊な能力を持つ (Debord, 1967: 1-15)。この状況において、20世紀的な意味での前衛——「制度化」作用の外部からの根源的政治的批判——は、もはや不可能になったように見える。しかし、この診断を前衛の完全な終焉として受け取るべきではない。むしろ問題は、現代の様に高度に発達した資本性生産社会において芸術全てが「制度化」された状況においても、なお批評的機能を持続させる前衛の新たな条件を見出すことである。次章では、この可能性の理論的基盤を詳細に検討する。
◆制度内批評の可能性——前衛の持続条件
この章では、制度化された状況においても前衛性を持続させる理論的条件を、批判理論、ポストモダン思想、美学理論の知見を総合して検討する。
前述したアドルノの「否定弁証法 Negative Dialektik」は、この問題を考察する上で最も重要な理論的手がかりを提供する (Adorno, 1973: 3-26)。アドルノが展開した「非同一的なもの」の概念は、制度的同化に抗する思考の可能性を理論的に基礎づける。真の批判的思考とは、対象を既存の概念枠組みに還元することを拒否し、概念と対象の間に残存する「非同一性」を維持し続けることにある。この否定弁証法の音楽美学への適用が、『美学理論 Ästhetische Theorie』における「美的仮象」概念である (Adorno, 1997: 1-15, 104-124)。アドルノによれば、真の芸術作品は現実との和解を拒否し、現存する社会の矛盾を暴露する「否定性」を保持する。この否定性こそが、「制度化」された状況においても前衛性を持続させる核心的要素である。重要なのは、この否定性が単なる反抗や拒否ではなく、より微細で持続的な批評的距離として理解されることである。アドルノが新ウィーン楽派、特にシェーンベルクの音楽に見出したのは、調性システムの歴史的安定性に対する内在的批判の可能性であった (Adorno, 1997: 54-67)。シェーンベルクの十二音技法は、調性を外部から破壊するのではなく、調性の論理を極限まで推し進めることで、その内部矛盾を露呈させる戦略であった。この戦略は現代の前衛音楽にとって示唆的である。制度を単純に拒否するのではなく、制度の論理を過剰に演じることで、その限界を内部から暴露すること——これが制度内批評の基本的構造である。
この文脈において、ケージの実践は制度内批評の具体例として理解できる。ケージの《4分33秒》は、単なる「音のない音楽」ではなく、演奏会という制度空間そのものを舞台とした実験であった (Sontag, 1969: 3-34)。この作品は、制度を完全に拒否するのではなく、制度の枠組みを利用しながら、その前提を根底から問い直している。演奏会場、演奏者、聴衆、楽器、楽譜——これらすべての制度的要素は保持されているが、それらの機能は根本的に転倒されている。演奏者は演奏しない、楽器は音を出さない、楽譜は沈黙を指示する、聴衆は自らの存在音を「音楽」として聴くことになる。この転倒によって、制度の見えない前提——何が音楽で何が音楽でないか、誰が演奏者で誰が聴衆か、作品はどこに存在するか——これらすべてが問い直される。この戦略の重要性は、制度を破壊することなく、制度の自明性を揺るがすことにある。制度の外部に立つことで批判するのではなく、制度の内部に留まりながら、その論理を微細にずらすこと——これがシェーンベルクが行った事と同様に、現代における前衛の基本的方法である。ケージのより後期の作品、例えば《ヨーロッパ1&2 Europera 1 & 2》(1987年)における偶然性オペラの試みも、同様の論理に基づいている。オペラという最も制度化された音楽形式を用いながら、その構成要素(歌手、オーケストラ、舞台、衣装、照明)を偶然性によって再編成することで、オペラの制度的同一性を内部から解体している (Cage, 1961: 18-56)。また、現代の前衛音楽家が直面している問題は、資本性生産社会への完全な包摂と「制度化」からの完全な離脱という偽の二者択一ではない事も強調しなくてはならないだろう。現代の前衛音楽においてむしろ必要なのは、資本との関係を戦略的に構築し、批判的距離を維持し続けることであり、この批判的距離は、固定的な位置ではなく、動的な関係として理解されなければならない事は既に述べた。その様な意味で、前記したブルドューの界論が、この戦略的関係を理解する上で有用であると考えうる (Bourdieu, 1993: 29-73)。ブルデューが『芸術の規則 Les règles de l’art』で展開した「文化的生産の場」概念によれば、芸術家は「純粋芸術の極」と「商業的成功の極」の間で位置取りを行う (Bourdieu, 1996: 214-240)。重要なのは、この位置取りが固定的ではなく、絶えず更新され続けることである。前衛音楽家にとっての批判的距離とは、この位置取りの戦略的操作として理解できる。制度的承認を完全に拒否すれば影響力を失い、完全に受け入れれば批判的機能を失う。必要なのは、この両極の間で微細な調整を続け、資本との関係における距離を維持することである。ヘルムート・フリードリヒ・ラッヘンマン Helmut Friedrich Lachenmann(1935–)の実践は、この戦略実践の好例である。ラッヘンマンは、クラシック音楽の制度的枠組み(オーケストラ、室内楽、オペラ)を維持しながら、その内部で楽器の「誤用」を通じてノイズを導入し、美的カテゴリーを撹乱している (Lachenmann, 2004: 91-102)。彼の音楽は、制度的文脈なしには成立しないが、同時に制度の前提を根底から問い直している。
◆戦略的距離と微細な実践の理論的基礎——資本の包摂力とその限界
ここで、本論の中心的主張である「戦略的距離」と「微細な実践」が、なぜ資本の包摂力を逃れうるのかという根本的問いに、理論的に応答する必要がある。この問いに答えることなくしては、本論全体が資本主義の自己正当化に加担する楽観主義に陥る危険がある。
まず確認すべきは、資本主義の包摂力が絶対的ではなく、構造的限界を持つという事実である。恐らくカール・マルクス Karl Marx(1818–1883)以降、最も印象的と評される資本主義論を著したジル・ルイ・ルネ・ドゥルーズ Gilles Louis René Deleuze(1925–1995)=ピエール=フェリックス・ガタリ Pierre-Félix Guattari(1930–1992)が『アンチ・オイディプス L’Anti-Œdipe』および『千のプラトー Mille Plateaux』において展開した資本主義論は、この限界を明瞭に示している (Deleuze & Guattari, 1972: 139-271; 1980: 580-599)。彼らによれば、資本主義は「脱コード化」と「再領土化」という二重の運動によって機能する。資本主義は伝統的コードを破壊し流動化させる(脱コード化)が、同時にそれを貨幣という抽象的コードのもとに再統合する(再領土化)。重要なのは、この二つの運動の間には本質的な時間的ズレが存在するということである。脱コード化は瞬間的に生じるが、再領土化には時間を要する。この時間的間隙こそが、「逃走線 ligne de fuite」が生成される空間である (Deleuze & Guattari, 1980: 9-37)。前衛音楽における「戦略的距離」とは、まさにこの時間的間隙を戦略的に利用する実践である。新たな音響実践が出現した瞬間、それはまだ資本の論理に完全には包摂されていない。ノイズは「ノイズミュージック」というジャンルになり、即興は「フリー・インプロヴィゼーション」として市場化されるが、この市場化には必然的に遅延が伴う。この遅延の時間において、音響実践は資本の論理とは異なる価値体系、異なる社会的関係、異なる聴取様式を実験的に構築できる。問題は、この遅延をいかに持続させ、再領土化を遅らせるかである。ここで「微細な実践」の戦略的意義が浮上する。フランスの歴史家ミシェル・ド・セルトー Michel de Certeau(1925–1986)が『日常的実践のポイエティーク L’invention du quotidien』で展開した「戦術 tactique」概念は、微細な実践の理論的基盤を提供する (de Certeau, 1980: 57-63)。セルトーは「戦略 stratégie」と「戦術」を区別する。戦略とは、固有の場所を持つ権力主体(国家、企業、制度)が行使する計画的行為である。それに対して戦術とは、固有の場所を持たない主体が、他者の領域内で機会主義的に展開する即興的行為である。戦術は権力の監視の網目をすり抜け、制度の規則を形式的には遵守しながら、その意図を横滑りさせる (de Certeau, 1980: 63-80)。前衛音楽における「微細な実践」は、まさにこの戦術の論理に従う。それは制度を正面から攻撃するのではなく、制度の内部で微細な逸脱を累積させる。演奏会という制度を利用しながら、演奏会の前提を問い直す。楽譜という制度を用いながら、楽譜の権威を相対化する。助成金を受け取りながら、助成制度が前提とする「芸術的価値」を撹乱する。
この微細な実践が資本の包摂を逃れうる第一の理由は、その「閾下性 subliminality」にある。資本主義の包摂メカニズムは、可視的で計量可能な差異を対象とする。市場は、ジャンルとして認識可能で、商品として流通可能な差異を取り込む。しかし、あまりに微細で、あまりに曖昧で、あまりに不定形な差異は、資本の認識の網目をすり抜ける。ケージの《4分33秒》が初演された1952年から現在に至るまで、この作品は完全には「商品化」されていない。それは録音として販売されているが、録音された沈黙は本質的に矛盾した商品である。聴取者が経験するのは録音された沈黙ではなく、聴取の「いま・ここ」における環境音だからである。この作品の本質的価値は、商品化に抵抗する構造を持つ。同様に、サイト・スペシフィックなサウンド・インスタレーション、一回性の即興演奏、消滅を前提とした音響介入——これらの実践は、再現可能性と交換可能性を前提とする資本の論理に根本的に適合しない。
第二の理由は、資本主義自体の内的矛盾が、批評的実践の余地を絶えず再生産するということである。アドルノが『否定弁証法』で主張したように、資本主義社会は完全に統合された全体性ではなく、内的矛盾によって特徴づけられる事は前述した通りである (Adorno, 1973: 146-161)。より具体的に敷衍するならば、資本主義は利潤の極大化を追求するが、この追求自体が新たな矛盾を生み出す。文化産業は「革新性」を商品価値として求めるが、真に革新的な実践は既存の価値体系を破壊する。市場は「独自性」を求めるが、真に独自なものは市場での交換可能性を欠く。助成制度は「実験性」を支援するが、真に実験的な実践は失敗の可能性を本質的に含む。この矛盾の構造が、批評的実践の空間を絶えず再開する。前衛音楽家は、この矛盾を意識的に利用することができる。制度が「革新性」を求めるなら、制度が想定する「革新性」の範囲を超えた実践を提示する。市場が「独自性」を求めるなら、市場化に抵抗する独自性を追求する。このように、資本主義の論理そのものを過剰に演じることで、その論理の限界を露呈させることが可能になる。
第三の理由は、感覚と意味の非対称性にある。1970年代末に「論理的叛乱 Révoltes Logiques」グループを創設した哲学者ジャック・ルイ・ランシエール Jacques Louis Rancière(1940–)が『不和 La Mésentente』で展開した政治概念は、この非対称性を明確にする (Rancière, 1995: 51-67)。ランシエールにとって、真の政治とは既存の「感性の配分 Le partage du sensible」を撹乱し、「見えないものを見えるものに」「聞こえないものを聞こえるものに」転換することである。資本主義は感覚を意味へと、経験を価値へと、絶えず翻訳しようとする。しかし、この翻訳は常に剰余を残す。前衛音楽が生成する音響経験は、既存の意味体系に完全には回収されない感覚的剰余を含む。この剰余こそが、批評的可能性の源泉である。モートン・フェルドマン Morton Feldman(1926–1987)の6時間に及ぶ弦楽四重奏曲を聴く経験は、「前衛音楽」というジャンル概念によっても、「実験的」という形容詞によっても、完全には捉えられない。そこには、言語化に抵抗する身体的・時間的経験の強度がある。ラッヘンマンのノイズ音楽における「美しさ」は、従来の美的カテゴリーでは形容不可能な質を持つ。この形容不可能性が、資本による意味付けを遅延させる。
第四の理由は、実践の反復不可能性と文脈依存性である。ドゥルーズが『差異と反復 Différence et répétition』で論じたように、真の差異は反復によって同一化されることに抵抗する (Deleuze, 1968: 1-79)。資本主義の包摂は、実践を反復可能な形式へと還元することで機能する。しかし、前衛音楽の批評的実践は、本質的に文脈依存的で反復不可能である。同じ《4分33秒》でも、演奏される空間、時間、社会的文脈によって、全く異なる意味と効果を持つ。1952年のウッドストックにおける初演と、2025年の東京における演奏では、聴取される「沈黙」の内容も、その批評的効果も全く異なる。この文脈依存性が、実践の公式化と商品化を困難にする。資本は「《4分33秒》というコンセプト」を商品化できるが、「《4分33秒》の聴取経験」を直接的には商品化できない。
第五の理由は、実践共同体の自律性である。ブルデューが指摘するように、芸術の場は相対的自律性を持つ (Bourdieu, 1992: 285-334)。この自律性は完全ではないが、ゼロでもない。前衛音楽の実践者たちは、市場や国家とは部分的に独立した評価基準、規範、連帯を構築する。実験的音楽シーン、インディペンデント・レーベル、オルタナティブ・スペース、アーティスト・ラン・スペース——これらの領域では、資本主義的価値とは異なる価値体系が機能している。もちろん、これらの空間も資本主義経済から完全に独立しているわけではない。しかし、そこでは商業的成功よりも芸術的誠実さ、経済的効率よりも実験的精神、大衆的人気よりも批評的厳密さが重視される。この価値の部分的転倒が、批評的実践の持続を可能にする。
最後に、最も根本的な理由として、人間の感覚と欲望の可塑性がある。資本主義は人間の欲望を形成し管理しようとするが、欲望は本質的に過剰で制御不可能である。ジャック・マリー・エミール・ラカン Jacques Marie Émile Lacan(1901–1981)の精神分析理論が示すように、欲望は対象への到達を本質的に拒む構造を持つ (Lacan, 1966: 627-641)。前衛音楽は、満足ではなく不満足を、調和ではなく緊張を、快楽ではなく不快をもたらすことがある。しかし、まさにこの否定性が、欲望の新たな回路を開く。ノイズに美を見出す感覚、沈黙に豊かさを聴取する能力、不協和に真理を認識する判断力——これらは、資本が提供する既製の感覚様式の外部で形成される。そして、一度形成されたこの新たな感覚は、元の感覚様式に完全には回帰しない。前衛音楽の経験は、聴取者の知覚様式に不可逆的な変容をもたらす。この変容こそが、資本の包摂に対する最も根本的な抵抗である。
以上の六つの理由——時間的間隙、閾下性、資本の内的矛盾、感覚と意味の非対称性、反復不可能性、実践共同体の自律性、そして感覚の可塑性——が、「戦略的距離」と「微細な実践」が資本の包摂力を逃れうる理論的根拠を構成する。重要なのは、これらの理由のいずれも、資本主義の「外部」を前提としていないことである。むしろ、資本主義の内部構造そのもの——その時間性、矛盾、限界——が、批評的実践の可能性を絶えず再生産している。資本性生産社会は絶えず変容し、資本は絶えず新たな包摂メカニズムを開発する。前衛音楽もまた、それに抗うように新たな戦略を開発し、新たな逃走線を探索し続けなければならない。これが、現代における前衛の条件である。
つまり、前衛音楽の制度内批評における最も重要な戦略は、聴取そのものの政治性に介入することである。既にこの戦略は、ランシエールが展開した「感性の政治学」において、その理論的基盤を提供されている。つまり、何が見えるもので何が見えないものか、何が聞こえるもので何が聞こえないものか、誰が話す資格を持ち誰が持たないか——これらの境界を引き直すことが政治的行為の本質であるならば、前衛音楽の批評的機能は、まさにランシエールの文脈に沿って聴取の境界を引き直すことにある (Rancière, 2004: 7-19)。制度は常に「何を音楽と見なすか」「何を音と認識するか」といった境界線を引くことで、感覚の領域を規定しようとする。またアドルノによると、前衛音楽の実践はこの境界において生起するノイズ、不確定性、断絶、逸脱といった要素を通じて、聴取感覚の自明性を撹乱する (Adorno, 1997: 315-334)。この感覚の制度批判は、単なる音響的実験ではなく、深く政治的な行為である。なぜなら、それは資本主義が前提とする主体性そのもの——何を価値あるものとして聴き、何を無価値なものとして排除するか——を問い直すからである。次章では、この聴取の問い直しが具体的にどのように実践されるかを、シェフェールとシュトックハウゼンの事例を通じて検討する。
◆聴取の問い直しとしての前衛実践——シェフェールとシュトックハウゼンの事例
前章で論じた制度内批評の可能性は、シェフェールとシュトックハウゼンという、20世紀中期の音楽観を大きく転回させた二人の作曲家の実践において、具体的に実現されている。両者の試みは、異なるアプローチを取りながらも、共通して「聴取そのもの」の制度的前提を問い直すものであった。
前述したフランスの作曲家シェフェールは、いわゆる「ミュージック・コンクレート musique concrète」の創始者として知られるが、彼の試みの本質は新技術の導入ではなく、音楽の認識論的基盤を揺るがすラディカルな挑戦にあった (Schaeffer, 1966: 77-95)。シェフェールは1948年の《エチュード・オ・シュマン・ド・フェール Étude aux chemins de fer》を皮切りに、既存の楽譜や記譜、演奏といった伝統的な西洋音楽における構造をすべて解体し、「録音された音」そのものを素材として扱うという逆転の発想を提示した。この逆転が持つ意味は、単なる技術的革新を超えている。それは、音楽を「作品」や「演奏」としてではなく、〈音響の経験〉そのものとして捉え直す試みであった (Schaeffer, 1966: 153-172)。従来の音楽制度においては、楽譜が音楽の「存在」を規定し、演奏はその「現実化」として位置づけられていた。しかしシェフェールの具体音楽においては、録音された音響事象そのものが音楽の「存在」となり、楽譜や演奏という媒介項は消失する。シェフェールが導入した「還元的聴取 écoute réduite」の概念は、この転回の核心を成す (Schaeffer, 1966: 208-230)。これは、音の発生源や意味的内容からいったん距離を取り、音そのものの音響的性質に集中するという、エドムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール Edmund Gustav Albrecht Husserl(1859–1938)的現象学に通じる態度である。フッサールの現象学的還元では、自然的態度における存在定立を「括弧に入れる」ことで、意識と対象の相関構造を純粋に記述することが目指される。同様に、シェフェールの還元的聴取では、音の因果的起源や文化的意味を「括弧に入れる」ことで、聴取という現象そのものの構造を明らかにしようとする (Schaeffer, 1966: 230-245)。この還元的聴取は、単なる技法ではなく、聴取の「制度化」された前提を意識的に拡張に変奏することで、音を根源的な知覚の対象として捉え直そうとする政治的実践である。シェフェールが『音楽的対象論 Traité des objets musicaux』(1966年)で詳細に展開した「音楽的対象 objet musical」の理論は、この批評的実践の理論的基盤を提供している。音楽的対象とは、還元的聴取によって構成される音響的単位である。それは物理的音響でも心理的感覚でもなく、聴取という意識作用と音響現象の相関において成立する現象学的対象である (Schaeffer, 1966: 245-270)。この音楽的対象の理論によって、シェフェールは音楽を従来の「制度化」的規定から解放し、聴取の現象学的構造に基づいて基礎づけようとした。シェフェールの代表作《サン・エクジュペリへのオマージュ Hommage à Saint-Exupéry》(1975年)は、この理論の実践的展開である。この作品では、航空機のエンジン音、風の音、人間の声などの録音された音響素材が、還元的聴取の原理に基づいて構成されている。聴取者は、これらの音の発生源を特定しようとする自然的態度から離れ、音響的質感そのものに集中することを求められる。
一方、シュトックハウゼンの実践は、より包括的な時間・空間・人間の秩序そのものへの干渉として展開された (Stockhausen, 1989: 15-35)。シュトックハウゼンは戦後ドイツの制度的再建期における音楽の再構築を担う一方で、既存の音楽的枠組みを徹底して超越しようとする志向を持ち続けた。シュトックハウゼンの電子音楽作品《習作I Studie I》(1953年)、《習作II Studie II》(1954年)は、純粋に電子的に合成された音響による最初の作品群として音楽史に記録されている (Stockhausen, 1989: 110-145)。しかし、これらの作品の意義は技術的新奇性にあるのではなく、聴取の時間的構造そのものを問い直したことにある。《習作I》では、純正律の倍音関係に基づく音高構造が、極めて精密に電子的に合成されている。この作品において、聴取者は従来の調性的聴取習慣では把握困難な微細な音程関係に直面する。《習作II》では、さらに複雑な音響スペクトルの操作が行われ、音色と音高の境界そのものが問い直されている。これらの作品は、楽器演奏という身体的媒介を完全に排除することで、音響現象の純粋な構造を聴取の対象とした。シュトックハウゼンは後に回想している:「私が求めていたのは、人間的な癖や習慣に汚染されていない、純粋な音響関係だった」(Stockhausen, 1989: 130)。この「純粋性」への志向は、単なる抽象化ではなく、制度化された聴取習慣からの根源的な離脱を意味していた。シュトックハウゼンの空間音楽の構想を実現した《グルッペン Gruppen für drei Orchester》(1955–57年)は、三群のオーケストラを舞台上に三方向に配置し、音響の空間的移動を作品の構造原理とした革命的作品である (Stockhausen, 1989: 200-235)。この作品では、聴取者は従来の正面性を前提とした演奏会空間の制約から解放され、音響の立体的展開を経験することになる。重要なのは、この空間的革新が単なる音響効果ではなく、聴取主体の空間的位置づけそのものを問い直していることである。従来の演奏会空間では、聴取者は受動的な受容者として固定的位置に置かれていた。しかし《グルッペン》では、聴取者は音響の空間的展開に応じて、自らの聴取的立場を能動的に再構成することが求められる。シュトックハウゼンの試みの特徴は、作曲家という西洋の伝統的主体における役割を拡張した点にある。彼はしばしば「メッセージを受信する媒体」として自らを語り、音楽制作を制度的な知的労働ではなく、「調律 Stimmung」の実践として位置づけた (Stockhausen, 1989: 145-165)。この姿勢は、資本によって管理される創作活動の地平を根底からずらすものであった。晩年のオペラ・サイクル《光 LICHT: Die sieben Tage der Woche》(1977–2003年)シリーズは、この「調律」の実践の集大成である。7つのオペラからなるこのサイクルは、曜日、色彩、身体部位、惑星などの象徴体系を音楽構造と対応させた壮大な統合芸術として構想されている (Stockhausen, 1989: 250-275)。《光》シリーズの各作品は、従来のオペラの制度的枠組みを維持しながら、その内容を根本的に転換している。例えば《木曜日の光 DONNERSTAG aus LICHT》(1981年)では、主人公ミヒャエルの成長物語が、音響的変容のプロセスとして描かれる。歌手は単なる役柄の演技者ではなく、音響的変容の媒体として機能する。
この様に、二人の戦中、戦後の作曲家たち、シェフェールとシュトックハウゼンの実践に共通するのは、「資本により制度的にコード化された聴取」をいったん宙吊りにし、その空隙に新たな感覚の経験を立ち上げようとした点である (Kahn, 1999: 195-225)。両者のアプローチは対照的であるが、その効果は共通している。即ち、聴取者を既存の聴取習慣から引き離し、音響現象との新たな関係を構築することである。
シェフェールは日常の音の中に芸術の可能性を見出すことによって、資本主義における芸術概念の閉域を開放し、聴取を再政治化した。家庭の雑音、街の騒音、自然の音響——これらはすべて潜在的な音楽的素材として再定義される。この再定義によって、芸術と非芸術、文化と自然、価値あるものと無価値なものといった制度的境界が撹乱される。シュトックハウゼンは音を「超人間的な力」として再定義することにより、人間中心主義的な音楽制度そのものを相対化した (Stockhausen, 1989: 250-275)。シュトックハウゼンの音楽では、作曲家、演奏者、聴取者という人間的主体は、より大きな、古代ギリシアにおける宇宙論的な(それか中世西洋における「ムジカ・ムンダーナ musica mundana」の様な)秩序の媒体としての装置の様に位置づけられる。この転換によって、音楽制作における人間的主体性の自明性が問い直される。
どちらの作曲家も、「音とは何か」「音楽とは誰のものか」「感覚とは制度によっていかに形づくられているか」という問いに真正面から対峙した。彼らの音楽は、資本の論理を綿密に把握しつつ、その内部で微細なズレや逸脱を戦略的に導入することで、聴取の異化作用を及ぼす実践として機能した (Adorno, 1997: 315-335)。
肝要なのは、これらの作曲家の実践が現在においても、単なる歴史的事例ではなく、前衛音楽の批評的可能性を示す現在的モデルとして機能することである。シェフェールとシュトックハウゼンの名前が音楽史においてテクストの内部に位置づけられ、すでに「古典的前衛」として認識されてしまっている事実は、資本による包摂力の強靭さを逆説的に示している (Bürger, 1984: 335-350)。しかし、それにもかかわらず、彼らの実践がいまだに聴取の根本を問い続けているのは、彼らの音楽が「何を聴かせるか」ではなく、「どのように聴かせるか」「どのように聴き直させるか」を問うものであったからである (Adorno, 1997: 350-365)。この問いかけの構造こそが、「制度化」を超えて持続する前衛性の核心である。現代の前衛音楽家たちは、シェフェールとシュトックハウゼンの遺産を単純に模倣するのではなく、彼らが提起した「聴取の問い直し」という課題を、現在の制度的条件のもとで再実践する必要がある。次章では、この再実践がどのような形で可能かを、後期資本性生産社会における地政学的問題を視野に入れて検討する。
◆制度の地政学と非中心的前衛の可能性
前章で検討したシェフェールとシュトックハウゼンの実践は、主として西ヨーロッパという「中心」から発された前衛の事例であった。しかし、グローバル資本主義によって国際社会における交通が流動化した現代において、前衛の可能性を包括的に考察するためには、より広い地政学的視座が必要である。この章では、資本主義の権力関係と文化的ヒエラルキーを視野に入れながら、非中心的位置からの前衛的実践の可能性を探る。
ここで挙げねばならないのは、西ヨーロッパの周縁、あるいはその外部に位置づけられる主体にとって、前衛であることはどのように可能なのか、というホミ・キリアン・バーバ Homi Kiran Bhabha(1949–)の問いである (Bhabha, 1994: 85-92)。この問いは単なる地理的・国民的問題ではなく、制度と知覚の関係が、どのような歴史的・政治的文脈のもとで構築されてきたのか、という根本的な問題に関わる。『オリエンタリズム Orientalism』においてエドワード・ワディ・サイード Edward Wadie Said(1935–2003)が明らかにしたように、西洋的知識の権力構造は、文化的表象を通じて他者を支配する巧妙なメカニズムを含んでいる (Said, 1978: 1-28)。そしてバーバの主張するのは、音楽の領域においても、同様の権力構造が作動しているという事である。「クラシック音楽」「現代音楽」「前衛音楽」といったカテゴリーは、中立的な分類ではなく、特定の文化的ヒエラルキーを前提とした権力装置である。制度とは、それが普遍的であることを装うことでローカルな政治性を隠蔽する構造体である (Bhabha, 1994: 66-84)。
したがって、「どこで前衛であるか」「誰に対して前衛であるか」という地政学的問題を抜きにして、現代における前衛を論ずることはできない。前衛概念そのものが、西ヨーロッパ的近代性の産物であり、その概念を無批判に普遍化することは、文化的帝国主義に加担することになりかねない。この問題は、単に非西洋的文化の特殊性を尊重すればよいという多文化主義的解決では済まない。なぜなら、現代においては、グローバル資本主義の進行とともに、音楽の制度的再編成が進行しており、地域的特殊性そのものが資本の論理に取り込まれる構造が成立しているからである。現代では、国際現代音楽祭やアカデミー、各国の助成制度、大学院プログラム等においては、かつて周縁とされた地域(東欧、東アジア、南米など)からの作曲家たちが積極的に参加し、「制度的前衛」の語りを支える構成要素となっている (Taylor, 1997: 26-45)。この現象は、一見すると前衛音楽の民主化や脱中心化を示すように見える。しかし、より注意深い分析が必要である。制度の内部に参入することで初めて「前衛」として認識されるという構造が、逆説的に制度の権力性を強化している (Taylor, 1997: 45-72)。「多様性」や「国際性」は、制度の正統性を強化する修辞として機能し、根本的な権力関係は温存される。
例えば、武満徹 Takemitsu Tōru(1930–1996)や細川俊夫 Hosokawa Toshio(1955–)といった東アジア出身の作曲家が、欧州の現代音楽界において高い評価を得たことは事実である (Burt, 2001: 1-25)。しかし、その評価はしばしば「異質な文化的出自をもった者が、制度の様式を巧みに習得した」という物語の中に位置づけられやすい (McClary, 1989: 57-81)。武満の《ノヴェンバー・ステップス November Steps for biwa, shakuhachi and orchestra》(1967年)は、琵琶と尺八という日本の伝統楽器とオーケストラを組み合わせた作品として国際的な注目を集めた。しかし、この作品の受容過程では、「東洋的神秘性」や「日本的美意識」といった本質主義的言説が前景化し、武満の音楽的思考の複雑さは単純化されがちであった。このような受容の仕方は、表面的には多文化性を称揚しているように見えるが、実際には西洋中心主義的な枠組みを強化している。「他者」の音楽は、西洋的主体にとって理解可能な形で翻訳される限りにおいて受容され、その翻訳不可能な部分は排除されるか、「神秘的なもの」として本質化される。
この現状に対して、本稿で論じられている後期資本主義社会に対して恐らく最もラディカルな批判を展開するラカン派マルクス主義哲学者のスラヴォイ・ジジェク Slavoi Žižek(1949–)は次の様に指摘する。即ち、真に前衛的であるとは、既成の文化的カテゴリーに従うことを拒否し、資本主義が前提としている時間観、空間観、聴取観そのものに介入していく事であるという (Žižek, 1989: 33-55)。それは単なる異文化的表象の導入ではなく、「制度化」作用のなかで政治性の実践可能性を再構成するような批評的姿勢である。例えばバーバのハイブリディティ論は、この批評的実践の理論的枠組みを提供する (Bhabha, 1994: 85-92, 112-116)。バーバが『文化の場所 The Location of Culture』で展開した「第三空間 third space」概念は、文化的アイデンティティの固定性を解体し、差異と反復の弁証法的過程として文化を捉え直す (Bhabha, 1994: 36-39)。第三空間とは、支配的文化と従属的文化の単純な対立を超えた、新たな意味生産の場である。そこでは、文化的記号は元の文脈から切り離され、新たな文脈において再配置される。この再配置の過程で、支配的文化の権威は内部から撹乱され、従属的文化もまた本質化された同一性から解放される。現代の前衛音楽における非中心的実践の多くは、この第三空間の論理に基づいて理解できる。例えば、フィリピンの作曲家ホセ・モンセラート・マセダ José Montserrat Maceda(1917–2004)による音楽実践は、西洋的現代音楽の技法と東南アジアの伝統的音響文化を単純に融合させるのではなく、両者の境界そのものを問い直す実験であった (Maceda, 1986: 62-78)。マセダの《ウグナヤン Ugnayan, for 20 Radio Stations》(1974年)は、20台のラジオ、声、ガンサ(青銅製ゴング)を用いた大規模なサウンド・インスタレーションである。この作品では、ラジオから流れる現代的音響情報と、ガンサの伝統的音響が同一空間で展開されるが、それらは調和的に統合されるのではなく、相互に干渉し合う異質な音響層として配置されている。強調するならば、この作品が「フィリピンの伝統」と「西洋の現代性」という本質化されたカテゴリーを前提とするのではなく、音響的実践を通じてそれらのカテゴリー自体を解体していることである。聴取者は、「伝統的なもの」と「現代的なもの」を判別することよりも、音響的差異の生成過程そのものに注意を向けることを求められる。
このような非中心的前衛の実践は、しばしば制度的に整備された音楽空間の外部で展開される。制度的に未整備な空間のなかで、既存のホールや楽器に依存せず、都市空間そのものを音響の地場とするインスタレーション的実践が、世界各地で展開されている (LaBelle, 2006: 191-220)。例えば、マックス・ニューハウス Max Neuhaus(1939–2009)による《タイムズスクエア Times Square》(1977–1992、2002–)は、ニューヨークのタイムズスクエアの地下に設置された音響装置が、都市の騒音と微細に混合する持続音を放出し続ける作品である (LaBelle, 2006: 200-210)。この作品は、美術館やコンサートホールという制度空間を完全に迂回し、都市生活者の日常的移動の中に音楽的経験を挿入する。重要なのは、この挿入が攻撃的な介入ではなく、都市音響の生態系に寄生する微細な操作として実現されていることである。多くの通行人は、この音響の存在に明確に気づくことなく、しかし無意識のうちにその影響を受けている。この「気づかれない気づき」こそが、「制度化」された芸術経験とは異なる感覚的経験の可能性を開いている。同様の戦略は、記譜法そのものの脱構築を通じて、時間・主体・作品といった西洋的作曲概念に揺さぶりをかける動向にも見出せる。アール・ルイス・ブラウン Earle Louis Brown(1926–2002)の「オープン・フォーム open form」やフェルドマンの図形楽譜は、演奏者の解釈的自由度を拡張することで、作曲家の権威を相対化した (Brown, 1986: 180-201; Feldman, 2000: 1-15)。これらの実践は、「音楽とは何か」の制度的前提に批評的に向き合う点において、現代的前衛の可能性を拓くものである。
ここで不可欠なのは、こうした実践が「制度化」の実践に積極的にしろ消極的にしろ「参加」するか否か、という二項対立に還元されるべきではないという視点である。むしろそれは、ドゥルーズ=ガタリが述べる様に、制度に対して「どう接続し、どうズラすか」という問いとして現れる (Deleuze & Guattari, 1987: 351-423)。先に論じた様に、非中心的位置からの前衛的実践は、単に「多様性」や「多文化主義」の名のもとに称揚されるべきではない。そのような称揚は、しばしば既存の権力関係を温存し、真の批評性を無害化する効果を持つ。必要なのは、地政学的権力関係を明確に意識しながら、その関係そのものを変容させる実践である。この実践の鍵となるのは、文化的アイデンティティの本質化を避けながら、同時に権力関係の非対称性を無視しないことである。アメリカのマルクス主義文芸評論家ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァック Gayatri Chakravorty Spivak(1942–)が「サバルタンは語ることができるか? Can the Subaltern Speak?」で提起した問題は、この文脈において重要である (Spivak, 1988: 271-313)。周縁化された主体の発話は、支配的言説の枠組みの中でのみ「理解可能」となるが、その理解可能性こそが発話の批評性を中和してしまう。現代の非中心的前衛は、この「理解可能性の罠」を回避しながら、なおも批評的効果を発揮する戦略を開発する必要がある。その戦略の一つは、意味の伝達よりも感覚の変容を重視することである。次章では、この感覚の変容がどのような「あわい」の空間で生起するかを詳細に検討する。
◆音のあわい——制度化を逃れる感覚の場
これまで論じた様に、現代音楽が前衛としての自覚をもちえた20世紀初頭から現在に至るまで、その軌跡は「音楽とは何であるか」「音を聴くとはいかなる経験であるか」を繰り返し問い直す試みの連続であった (Cage, 1961: 60-85)。アドルノの論述を、西田幾多郎 Nishida Kitarō(1870–1945)を含む日本の京都学派における思想でパラフレーズするならば、前衛音楽とは資本主義の内側に居ながらも、つねに資本の論理を横滑りし、音と沈黙の「あわい(間)」に新たな感覚の地平を開こうとする企てであると述べる事が出来るだろう (Adorno, 1997: 1-15)。この章では、この「あわい」の空間がいかにして「制度化」を逃れる感覚の場として機能するかを、現象学的・美学的観点から詳細に検討する。
西田の哲学において明示はされないが、彼の創始した京都学派哲学において極めて示唆的に重要なタームである「あわい」概念は、この問題を考察する上で重要な手がかりを提供する (西田, 1911: 9-25)。京都学派哲学において「あわい」とは、主客未分の純粋経験が分節化される以前の根源的場所である。それは単なる曖昧さや中間性を意味するのではなく、対立的規定に先立つ創造的無の場所として理解される。前衛音楽における「音のあわい」も、同様の構造を持つ。それは、資本主義が確定しようとする秩序の輪郭を撹乱し、意味と感覚のあいだに裂隙を生じさせる空間である。この裂隙において、聴取は既存のカテゴリーによる分節化を逃れ、未規定の経験として立ち現れる。有名なモーリス・メルロ=ポンティ Maurice Merleau-Ponty(1908–1961)の身体現象学は、この未規定の経験の構造を理解する上で決定的な重要性を持つ (Merleau-Ponty, 1962: 235-282)。メルロ=ポンティが『知覚の現象学 Phénoménologie de la perception』で展開した「身体的主体」概念は、聴取の根源的な構造を明らかにするからである。聴取する身体は、音響世界との間に志向的関係を結びながら、同時にその音響世界によって触発される受動的存在でもある。さらに重要なのは、メルロ=ポンティの後期思想における「肉 chair」概念である (Merleau-Ponty, 1968: 130-155)。肉とは、見るものと見られるもの、触れるものと触れられるもの、聴くものと聴かれるものの相互浸透的関係を指す。この肉の次元において、主体と客体の区別は曖昧になり、感覚は相互的で可逆的な過程として現れる。前衛音楽における「あわい」は、この肉の次元で生起する。そこでは、作曲家・演奏者・聴取者という制度的役割分担が溶解し、音響現象への参与的関与が成立する。ケージの《4分33秒》において聴衆が自らの存在音を「聴く」経験は、まさにこの相互的感覚の実現である。ケージの「無音の作品」は、この聴取の転回を最も明確に実現した例である。ケージが《4分33秒》において提示したのは、単なる音の不在ではなく、「聴取すること自体」を音楽の主題へと転換させることであった事は既に述べた (Cage, 1961: 109-127)。この転換によって、制度的に規定された「作品」や「演奏」という概念は解体され、聴取の出来事そのものが音楽となる。改めて考慮すべきなのは、この作品がただ「沈黙」を提示しているわけではないという事実である。実際の演奏においては、演奏者の身体音、聴衆のざわめき、空調の音、外部からの騒音など、無数の音響が立ち現れる。ケージが「発見」したのは、これらの音響がすでに「そこにある」という最たる事実であり、それらを音楽として「聴く」可能性である。この発見は、音楽の存在論的基盤を根底から変容させる。従来の音楽では、音楽的価値は作曲家の意図や演奏者の技術によって規定されていた。しかし《4分33秒》においては、音楽的価値は聴取者の聴取行為そのものによって生成される。音楽は「作られるもの」から「聴かれるもの」へと転換される。ケージ自身は、この転換の意義を仏教的無我の思想と関連づけて理解していた。「私が沈黙について学んだのは、沈黙は存在しないということです。つねに何かが起こっています。何かが音を立てています」(Cage, 1961: 8)。この「つねに何かが起こっている」状態への開かれが、「制度化」に基づく聴取からの解放を意味する。この解放は、単なる自由の獲得ではなく、聴取の責任の引き受けでもある。聴取者は、何を聴くべきかを指示される受動的存在から、何を聴くかを選択する能動的存在へと転換される。この転換において、聴取は政治的行為となる。何を価値あるものとして聴き、何を無価値なものとして排除するか——この選択こそが、感覚の政治学の核心であり、「あわい」概念はその核心に伴うトポスとなるだろう。前衛音楽における「あわい」の空間を想定するならば、それは時間的次元においても重要な変容をもたらすだろう。例えばスティーヴ・マイケル・ライヒ Stephen Michael Reich(1936–)のミニマリズムにおける極限まで単純化された素材の反復は、聴取者の時間感覚を撹乱し、「いま・ここ」に固定された時間意識を解体する (Reich, 2002: 22-30)。ライヒの《ピアノ・フェイズ Piano Phase》(1967年)では、二台のピアノが同じ旋律パターンを微細な速度差で反復する。この微細な差異によって、旋律の位相関係が徐々に変化し、新たなリズムパターンが浮上する。聴取者は、この変化の過程を追跡しながら、線形的時間意識から循環的時間意識へと移行することになる。この時間意識の変容は、資本主義的時間——効率性、生産性、進歩を基調とする量的時間——からの離脱を意味する。ライヒの音楽において、時間は消費されるものではなく、経験されるものとなる。聴取者は、時間の経過を待つのではなく、時間の質的変化を味わうことを求められる。またフェルドマンの異常に長大で静謐な楽曲は、この時間の質的経験をさらに極限まで推し進める (Feldman, 2000: 93-96)。フェルドマンの《弦楽四重奏曲第2番 String Quartet No. 2》(1983年)は、約6時間の演奏時間を要する。この作品では、微細な音量と音色の変化が、極めて緩慢なテンポで展開される。聴取者は、通常の演奏会の時間感覚では、この作品に対応することができない。必要なのは、音楽的時間への完全な没入である。この没入において、聴取者は日常的時間意識から切り離され、音響の微細な変化に対する感受性を研ぎ澄ませることになる。フェルドマン自身は、この経験を「時間の中に入ること」として記述している。「私の音楽では、時間が停止するのではなく、私たちが時間の中に入るのです。時間が私たちを包み込み、私たちは時間と一つになります」(Feldman, 2000: 95)。この「時間との一体化」が、「制度化」された時間からの解放を意味する。
前衛音楽における「あわい」の空間は、身体性の次元においても重要な政治的含意を持つ。制度的に「音楽」とはみなされない周縁的な実践——リュシアン(リュック)・ルイ・マルセル・フェラーリ Lucien (Luc) Louis Marcel Ferrari(1929–2005)による環境音の採集、デレク・ベイリー Derek Bailey(1930–2005)の廃墟での即興演奏、デイム・イヴリン・エリザベス・アン・グレニー Dame Evelyn Elizabeth Ann Glennie(1965–)などの聴覚障害を持つ身体による演奏——これらは、音楽制度の身体的前提を問い直す実践である (Bailey, 1992: 138-142; Glennie, 1990)。フェラーリの《春の風景のための直観的な小交響曲 Petite symphonie intuitive pour un paysage de printemps》(1963–64年)は、日常的音響環境の録音と音楽的構成の境界を撹乱する作品である。この作品では、街の雑踏、家庭の音、自然音などが、明確な音楽的意図なしに配列される。聴取者は、これらの音が「音楽」なのか「現実」なのかを判別することよりも、音響的現実への新たな関係を構築することを求められる。ベイリーの即興演奏は、楽器の標準的演奏法を逸脱し、楽器の物質性そのものを音響的資源として活用する。彼のギター演奏では、弦の振動だけでなく、木材の共鳴、金属の軋み、演奏者の呼吸音なども音楽的要素として機能する。この拡張された音響領域において、演奏は単なる技術的習熟ではなく、物質との対話として現れる。グレニーの打楽器演奏は、聴覚中心主義的な音楽概念を根本から問い直す。聴覚障害を持つグレニーは、音響を身体全体で感受し、振動の触覚的次元を音楽的表現の資源とする。グレニーの演奏において、音楽は耳で聴くものから身体で感じるものへと拡張される。
アドルノによると、これらの実践は、音楽を技術や形式の問題から解放し、「どのような身体が音を生み、どのように感覚が共有されるか」という倫理的・社会的次元を浮上させる (Adorno, 1997: 1-15)。それは、音楽制度が前提とする「標準的身体」の規範性を撹乱し、多様な身体性に開かれた音楽的実践の可能性を示している。
ユダヤ神秘思想に傾倒し、一神教的絶対的外部を提唱した哲学者エマニュエル・レヴィナス Emmanuel Levinas(1906–1995)の他者論は、この聴取の倫理的次元を理解する上で重要な手がかりを提供する (Levinas, 1969: 194-219)。レヴィナスが『全体性と無限 Totalité et infini』で展開した「他者の顔 visage de l’autrui」概念は、音楽における他者性の経験を理解する鍵となる。レヴィナスにとって、他者の顔とは、私の理解や把握を超越する無限性の現れである。顔は、私に対して「汝殺すなかれ」という根源的命令を発し、私の自己中心的存在を倫理的関係へと転換する。この他者性の経験は、視覚的なものに限定されず、聴覚的次元においても生起する。前衛音楽における「他者の声」は、この他者性の聴覚的現れとして理解できる。それは、私の聴取習慣や美的期待を撹乱し、私を未知なる感覚的経験へと開く。この開かれが、聴取の倫理的転換を意味する。聴取者は、音響を自己の快楽のために消費する主体から、音響の他者性に応答する責任ある主体へと転換される。
また、「脱構築 déconstruction」という絶大な影響力を持つ概念を提示した哲学者 ジャック・マリー・エミール・デリダ Jacques Marie Émile Derrida(1930–2004)は、この他者性の構造をさらに精密化する (Derrida, 1973: 60-87)。デリダが『声と現象 La voix et le phénomène』で展開した「現前の形而上学」批判は、前衛音楽における「現在性」の問題を考察する際の理論的基盤となる。デリダによれば、音声は一見すると現前性の特権的媒体であるように見えるが、実際には(ドゥルーズ=ガタリの概念を再び引用するならば)「差延 différance」の構造に貫かれている。音声の現在は、過去の記憶痕跡と未来の予期によって構成されており、純粋な現在は存在しない。この差延の構造が、音響経験における他者性を可能にする。前衛音楽は、この差延の構造を意識的に活用することで、聴取の現前性を撹乱し、他者性への開かれを創出する。その実践は、制度的言語で把握できない「非制度的経験」として立ち現れる (Deleuze & Guattari, 1987: 232-309)。このように、現代の前衛音楽は、ランシエールも指摘する様に、感覚の政治学、システムの批評学、そして倫理的他者性の探求として再定位されるべきものである (Rancière, 2004: 20-42)。その実践は、しばしば微小で、匿名的で、目立たず、語りにくい。だが、制度的言語で把握できないその「非制度的経験」こそが、「制度化」されえぬ感覚の可能性を担っている。
音の「あわい」に立つこと。それは、「制度化」構造の内部と「制度化」構造の外部という二項対立を超えて、資本の論理を横断しながら、ドゥルーズ=ガタリの述べる「感覚の生成の場」を絶えず開きつづけることである (Deleuze & Guattari, 1987: 351-423)。その場では、音楽はもはや作品でも形式でもない。それは、ポスト構造主義の哲学者ジャン=リュック・ナンシー Jean-Luc Nancy(1940–2021)による『聴くこと À l’écoute』概念において想起される次の3つの姿勢、つまり「音と向き合うこと」「耳を開くこと」「聴こえないものを聴こうとすること」そのものとして現れる (Nancy, 2007: 1-15)。ナンシーはこの聴取の根源的構造を独自に解明する。ナンシーによれば、聴くことは見ることとは異なり、対象との距離を前提としない。聴取において、私は音響に包まれ、音響と共振する。この共振が、主体と客体の境界を溶解させ、新たな関係性を生成する。したがって、前衛とは、過去の革新の記録でも、未来の予言でもない。それは、現に「ここで・この身体で」立ち上がる、資本に触れながら資本を越境する、感覚の実践である (Nancy, 2007: 30-45)。その実践は、いかなる意味にも回収されず、いかなる価値にも還元されない、「あわい」の中でひそかに響きつづける。そして、その響きに耳を澄ませること——それこそが、制度化を逃れる感覚の倫理であり、なおも前衛であろうとする意志に他ならない。
◆結論——前衛音楽の持続的批評性とその倫理的条件
本稿では、後期資本主義社会における前衛音楽の批評的可能性について、「制度化」というタームを駆使し、現実を直視しつつもなおもその内部で可能な批評的実践の条件を多角的に探ってきた。五つの章にわたる考察を通じて明らかになったのは、前衛音楽の批評的機能は確かに資本主義による包摂化の圧力にさらされているが、それは完全な被=包摂/消失を意味するものではなく、むしろ新たな形での持続的かつ政治的な批評可能性を示唆するということであった。
本稿の考察から導かれる結論として、以下の三点を提示したい。
第一に、前衛音楽の「制度化」は歴史的必然性を持つが、それは前衛性の完全な終焉を意味しない。重要なのは、資本との関係を単純な対立や同化ではなく、戦略的距離として構築することである。シェフェールの還元的聴取やシュトックハウゼンの統合芸術が示すように、資本主義の枠組みを利用しながら、その前提を根源的に問い直すことは十分に可能である。この戦略的距離こそが、現代における前衛性の核心的条件である。
第二に、前衛音楽の批評的機能の核心は、音楽の形式的革新や技術的新奇性ではなく、「聴取そのもの」を問い直すことにある。これは単なる美学的実験ではなく、感覚の政治学に深く関わる実践である。資本主義が規定する「聴取可能なもの」の境界を撹乱し、新たな感覚の可能性を開くこと——これこそが現代における前衛の真の使命である。ランシエールの「感性の配分」概念が示すように、聴取の境界を引き直すことは、政治的行為そのものなのである。
第三に、前衛とは様式や技法ではなく、態度であり姿勢である。それは、制度に対する不断の批評性を保持し、自らの立場と方法を絶えず更新し続ける倫理的実践として理解されるべきである。この倫理的実践は、他者性への開かれ、身体性の多様性への配慮、そして非制度的経験への感受性を含む包括的な態度である。
これらの結論は、西欧中心主義的な前衛概念の限界を意識した地政学的視座によって補完される必要がある。非中心的位置からの前衛的実践は、支配的文化と従属的文化の単純な対立を超えた「第三空間」において、新たな意味生産の可能性を拓く。この第三空間の戦略は、文化的アイデンティティの本質化を回避しながら、同時に権力関係の非対称性を無視しない微細な実践として展開される。マセダのフィリピンにおける実践やニューハウスの都市音響介入が示すように、前衛的実践は西洋における伝統的音楽空間を迂回し、日常的生活空間に浸透することで、新たな批評的効果を発揮する。この浸透戦略は、攻撃的な対立ではなく、寄生的な共存として機能し、既存の音響生態系を微細に変容させる。
前衛音楽が「制度化」を逃れて批評性を持続させる最も重要な場は、「音のあわい」——意味と感覚、制度と非制度、自己と他者の境界が撹乱される空間——である。この空間において、聴取は既存のカテゴリーによる分節化を逃れ、未規定の経験として立ち現れる。ケージの沈黙、フェルドマンの時間拡張、ベイリーの楽器逸脱、グレニーの身体的聴取——これらの実践は、制度的聴取の自明性を内部から撹乱し、感覚の他者性への開かれを創出する。レヴィナスの書く他者性への応答こそが、聴取を倫理的行為へと転換する。メルロ=ポンティの「肉」概念やナンシーの聴取論が明らかにするように、この倫理的聴取は主体と客体の境界を溶解させ、相互的で可逆的な関係性を生成する。この関係性において、前衛音楽は単なる文化的商品から、生きた批評実践へと転換される。
2017年、うつ病との長年にわたる闘病の末に自死したイギリスの思想家マーク・フィッシャー Mark Fisher(1968–2017)は次の様に指摘する。現代においては資本主義に真の「外部」は存在しない様に思われる、とである (Fisher, 2009: 1-11)。この、芸術も人間の汎ゆる営みも全てが資本に回収されうるという救いのない絶望的認識が彼を死に至らしめた。しかし、我々はより戦略的に生きなければらなない。つまり、この「外部性の不在」は前衛の不可能性を意味するのではなく、むしろ内在的批判の戦略的重要性を浮き彫りにするものであるという解釈の元で、創作の戦術を練らなくてはならない。アドルノの否定弁証法が示すように、真の批判は対象の外部に立つことによってではなく、対象の内在的矛盾を暴露することによって実現される。前衛音楽の批評性も、資本主義を外部から否定することにあるのではなく、資本主義の論理を過剰に演じることで、その限界を内部から露呈することにある。この内在的批判は、微細で持続的な実践として展開される。それは革命的転覆ではなく、日常的撹乱として機能し、制度の自明性を徐々に浸食していく。最後にドゥルーズ=ガタリの「リゾーム Rhizome: Introduction」概念を示そう。ドゥルーズ=ガタリによるこの撹乱は中心的な組織化原理を持たず、多方向的に拡散する分子的運動として展開される在り方の事を指す(Deleuze & Guattari, 1987: 3-25)。前衛音楽の新たな時代における倫理的姿勢の視座がありえるとしたら、 リゾーム概念を揚棄したものに成るのでは無かろうか。
以上の考察を踏まえ、現在の前衛音楽が直面する具体的課題とそれに対する微かな、しかし力強い展望を示すなら、以下の点が挙げられるだろう。まず、デジタル技術とネットワーク社会の進展に対応した新たな聴取形態の開発である。配信プラットフォームやソーシャルメディアが支配的となった現在、前衛音楽は従来の演奏会形式を超えた批評的実践を模索する必要がある。これは単なる技術的適応ではなく、デジタル環境における感覚の政治学を問い直すことを意味する。次に、環境危機と人新世の時代における人間中心主義的音楽概念の脱構築である。気候変動や生物多様性の喪失が深刻化する中で、前衛音楽は人間の聴取を自然の音響生態系との関係において再考する必要がある。これは、音楽制度の人間中心主義的前提を根本から問い直す作業を伴う。さらに、グローバル化と文化的多様性の問題に対する反本質主義的アプローチの開発である。単なる多文化主義的称揚ではなく、文化的差異を権力関係との関連で批判的に検討し、真の対話的実践を創出することが求められる。最後に、世代間継承と批評的伝統の持続という問題がある。前衛的実践の批評性を「制度化」による中和から守りながら、同時に次世代への継承を可能にする方法を見出すことは、前衛音楽にとって喫緊の課題である。
◆終わりに——前衛の倫理と未来への責任
本稿の最終的な主張は、前衛音楽がもはや「新しさ」や「難解さ」の象徴ではなく、「制度化」的現実の中で批評的距離を保ち続ける繊細で持続的な実践として再定義されるべきだということである事は強調してもしきれない。この再定義において、前衛は未来への一方向的な進歩ではなく、現在における応答責任として理解される。マーティン・ハイデガー Martin Heidegger(1889–1976)の系譜に連なる実存主義哲学者ハンス・ヨナス Hans Jonas(1903–1993)の責任倫理学はそれを明瞭に示している。ヨナスによると、技術的力の増大は人間の責任の範囲を拡張する (Jonas, 1984: 1-24)。そして音楽技術の発達も同様に、音楽家の倫理的責任を拡張している。前衛音楽家は、単に新しい音響を創出するのではなく、その音響が聴取者、社会、環境に与える影響について政治的責任を負っている。この重荷は、未来世代への配慮を含むものであり、現代を生きる芸術家全てが背負うべきものだ。現在の、特に前衛的実践が、未来の聴取可能性にどのような影響を与えるか——この問いに応答することが、前衛音楽の最終的な倫理的課題である。それは、一方的な革新の追求ではなく、持続可能な批評性の創出をも意味する。
前衛とは、過去の革新の記録でも、未来の予言でもない。それは、現に「ここで・この身体で」立ち上がる、資本に触れながら資本を越境する、感覚の実践である。その実践は、他者への応答責任を核心とし、制度的現実の中で微細な変容を持続させる態度として展開される。
音楽は問いであり、態度である。そしてそれが問われる場こそが、資本とそれに包摂された我々の生活のあわいにある、この現実そのものである。前衛音楽の真の可能性は、この現実への繊細で批判的な応答において開かれる。それは華々しい革命ではなく、日々の微細な実践において、静かに、しかし確実に、感覚の可能性を拡張し続ける営みなのである。
水谷晨,2025,東京.
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