高橋悠治さんと私

 南インドカレーおいしい!…という訳で久しぶりの投稿です。

 かつて、北海道にいらっしゃる、私のマルクス『資本論』読解の師匠と仰ぐ方から、ダンボール一箱ほどの書籍を頂いた事があります。その中でも特に印象深かったのは、高橋悠治さんの書籍『水牛楽団ができるまで』でした。

 彼の独特の筆致は、大江健三郎や小林秀雄などを徹底して批判するその姿が恐ろしいほど強烈な印象を与える一方、人々に語りかける姿は韜晦趣味に満ちています。しかし、その言葉の一つ一つには、常に相手の急所を貫きとおす鋭さをもっていました。それらの特徴は、あの有名な茂木健一郎との対談においても発揮されています。

 私が高橋悠治さんに直接お会いする機会は今まで二回ありました。一回目はある雑誌のインタビュー、もう一度はコンサートにおいて夕食をご一緒した時です。私は常に高橋悠治さんの言葉に怯えていたように思います。それでも、高橋悠治さんは、常に迷っている私に道を指し示す言葉を下さる気がしていいます。私が「音楽をパンにしたい」と思っていると正直に言うと、彼は「音楽で人を動かそうとしなくてもいい」と、そして禅や、今まで私が触れてこなかった思想家について色々と教えて下さいました。今でもメールのやり取りで、たまに助言を下さいます。

 引きこもりを強いられる今日このごろ、私は作品を書く気力が完全に奪われています。連日、読書や映画鑑賞に溺れています。今、70年代に書かれた高橋悠治さんのテキストを読むと、とてもそれが現代という時代に重なってくる様に思えてなりません。分裂と軋轢、そして閉塞感に満ちた小ブルジョワジー的な病状を白状するしかない今の私を見て、人はなんというかを考えてしまいます。

 いくらマルクスを掲げようと、連携すべき労働者人民はコンサートホールにいない。インターネットやテレビの電波は、空間と時間における主観性をすべての聴衆に強要し、その孤立をその商業上の条件とする。産業から離れた所に音楽はなく、空気の振動すべてを商品化しようとする資本という怪物に勝てる個人はいないだろう。誰の礎になる事もなく、忘れ去られる事が私の役割なのかもしれない。

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