現代音楽は必要なのか

 「現代音楽は理論先行で、聴衆を無視している。」「マーラーやドビュッシーといった“調性”音楽の人気に対し、それ以降の音楽はチケットすら売れない。」「プロレタリア大衆の為といくら言っても、コンサートホールに労働者や農民はいるのか?彼らはどこにいる?」「前衛音楽は死んだ。」。

 これらは、70年代から現代までずっと所謂、現代音楽、つまりアカデミアにおいて研究、実践されている音楽に対して言われてきた事です。日本では60〜70年代の高橋悠治と武満徹の議論がとても有名です。

 前世紀、東大紛争、三里塚闘争があり、政治の世紀といわれていた時代。高橋悠治が「音楽の政治参加は可能か?」と問うたのに対し、武満徹は激怒し「音楽に政治的作用があるとしたらそれは政治であって音楽ではない。プロレタリア大衆の為とでも言ったら設問者は満足するのか?」といった内容の返答を返しました(一方でその武満も裏では左派運動を支援していたのですが、それは公言していなかったし、今でも公式には認められていません。)。

 現代ではどうでしょう。アカデミアにおける、現代音楽、新しい音楽というものは、更に聴衆から離れていった様な印象を与えています。ブラームスやベートーヴェンが盛んに演奏されるのに対して、シェーンベルクですら演奏機会が極端に少ないのが、今の日本の現状です。私の住む東京都内の音楽サロンやコンサートのレパートリーを見ても、それは明らかです。

 また、上記の通り極めて政治的であった現代――前衛音楽――の在り方も、そのイデオロギーの地盤が崩れたように思えます。それは90年代以降、ソ連崩壊後の「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)に代表される様な、冷戦の終結と共に訪れた、発展の無い完全性に陥った資本主義から抜け出る術を、今の社会は見いだせていないからでしょう。しかし、よく言う「グローバル資本主義」という言葉を私はダブルミーニングだと思っています。「資本主義」の定義は即ちグローバリズムであり、それはK.マルクスの初期から変わらない概念だからです。

 話がそれました。

 そんな中、K.マルクスの『資本論』が、今再び脚光を浴びています。現在の、19世紀からいくらテクノロジーが進歩しても変わらない、資本家階級が賃金労働者から搾取して成り立つ格差社会という、この社会の生産関係、言い換えるならグランドデザインの終焉を精緻な分析から予測したK.マルクスの理論に今こそ再び光をあて、そして当のマルクスをすら超え、現実を変える為の革命理論がまた求められる時代だからでしょう。それは、格差や貧困、戦争、飢饉、苦しみ、そういったこの世界の抱える大きな痛みを、自らのものとして考える多くの人民に共通する願いだからです。

 さて、現代音楽は今からの時代、どのような形で未来を切り開いて行くのでしょうか。また再びイデオロギーと結びつくのか、それとも、全く新しい形で我々の想像も出来ないような発展の形を遂げていくのか。また美学は、哲学はそれにどのように貢献していくのか、様々な想像が広がります。

 さて、テーマの「現代音楽は必要なのか」、という問いについてですが、私はこれは問いの立て方がまず的外れであるとおもっております。人間は有史以前から創造してきました。ものをつくる事、それは工場の生産でも音楽の作曲でも、根本を支配する構造は変わらないからです。そこで言われる必要性や需要、供給という概念を(K.マルクスがそうしたように)最初に疑ってみてみるほうが、よっぽど面白い事でしょう。

 さて、今晩の映画タイムは北野武監督の『ソナチネ』です。私の多分一番好きな映画。珈琲と共に堪能しようと思います!

 ではでは!!

水谷晨

 

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