たまには作曲家らしいことを書け、と某所から言われたので、さてちょっと今の作業について。
私は歌曲を書いた経験はまだあまりないのですが、歌を書くのはとても好きな作業です。テキストと音楽の弁証法にはとても興味がありますし、私の出身である東京弁のアクセントを活かし、それにいかにメロディーを乗せるかが作曲家の技の見せ所でもあります。私はこのメチエを、いつも楽しんでいます。
16世紀末期から18世紀までのヨーロッパ史を通じて、オペラの作曲は作曲家の役割の多くをしめました。それこそ、剽窃、抜粋なんでもありの世界だったようです。当時の作曲家たちにとっては、いかに早く、多く、封建貴族や都市の新興市民階級に興行的なオペラを書くか、それが大きなテーマでした。今日のポピュラー音楽の様なものですね(剽窃はゆるされませんが!)。
しかし、私の場合、歌においては挫折する事も。
実は私は、普段の現代音楽の作曲の傍ら、ずっと弦楽オーケストラと女声の為の調性作品にとりくんでおりました。作詞家の榎本智史さまと一緒に、三部構成の作品としてこの弦楽と声の作品を仕上げ、出版出来ればと思い、もう3年ちかくテキストと格闘してきましたが、とうとう白旗を挙げてしまいました。
もう2曲目までは出来ており、音源もあります!
さて、しかしこの曲に続くフィナーレで、とうとう挫折です。作詞して下さった榎本さまに、頂いたテキストは必ず別の形で作品にするので、別の三曲目のフィナーレの歌詞を書いて欲しいとお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。私の無力さと対比しても明らかな榎本さまの優しい対応、心から感謝しかありません。
なぜ書けなくなったのか、それは私の周りの大きな環境の変化にあると思ってます。具体的には、フィナーレは長調の明るい楽想で締めようと思っていたのですが、昨今のニュースを見ても、大陸でのウィルス感染による膨大な死、それに伴う西洋における東洋人への差別、そして個人的な私自身の孤独と孤立などの情報/事情が重なって頭を悩ませ、奥行きのある明るいテキストと向かい合う創作上の体力がもう残っていないと感じたからです。
私はオランダ留学時代、オルガニストでもあり、とても厳しい音楽理論の師匠であったラインハルト・ボーケルマン先生の元で、ルネサンス時代の様式による対位法を学びました。パレストリーナの時代、16世紀における合唱曲、モテットやミサを書く実習でした。ラテン語のテキストに加え、沢山の規律の元で旋律を書き、それらを組み合わせる作業はとても難しかったのですが、その訓練のおかげでいまの私の旋律が生まれたと思ってます。
また、16世紀以降も、イタリア・オペラにおけるヴェルディやプッチーニの旋律書法は明らかにパレストリーナの影響を受けていると思ってます。これをかつてオーストリアはグラーツで研究している音楽学者の先生に話した所、プッチーニに関してはそのような資料はないと一蹴されましたが、音楽学者が文献資料をもって研究するのに対し、作曲家は耳と譜面で判断します。私は個人的に、自分のこの意見には確信を持ってます。笑
さて、シェーンベルクなどは器楽曲におけるテーマと歌曲におけるメロディーを厳密に峻別しました。それは、C.P.E.バッハにはじまるモチーフを展開させる作曲技法――ベートーヴェンの交響曲5番《運命》が有名ですね――と、大きく弧を描き、言葉の韻律から表情を描き出すメロディーが明らかに異なるという事を意味します。この厳密な違いは、交響曲をはじめとした器楽曲における旋律と、日本歌曲、ドイツのリート、フランスのメロディー、イタリアのオペラなどとの様々な様式の違いとして、今日も研究されているようです。
私はそれをしっかり実践できているのかしら。聴いて下さる皆様に判断はお預けしようとおもいます。♫
さて、ロシアのビザの手続き、かなり面倒くさそうですが、がんばります。
(`・ω・´)ゞ
それでは!
水谷晨