カント・近況・ウィトゲンシュタイン

こんにちは、作曲の水谷晨です。

今日はちょっと哲学のお話、そして近況について書こうと思います。

5月に予定されていた音楽祭への参加、案の定新型コロナウィルスのせいで中止になってしまいました。とても残念です。

【語りえぬものについては、沈黙しなければならない】
昔、カントとウィトゲンシュタインを並列して語っているテキストを読んだ事があります。両者の実体への態度の共通性を言ってるのだと思いますが、それらは似ているようで全然違います。

カントが、あらゆる論理、ロジックはある閾値を超えれば崩壊すると述べているのに対し、ウィトゲンシュタインはただ言語の無能さを嘆いているに過ぎません。
カントと同じか、少なくとも近い立ち位置にいるのはアメリカのJ.ジェインズでしょう。

前者がアンチノミーから出立して思考実験でその矛盾に行き当たったのに対し、後者は米英の心の哲学や、脳や言語の唯物論的分析から外堀を埋めていく形で同じ結論に至った訳だが、結局は同じです。

その上で「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言う事は出来るが、そこには一種のニヒリズムが感じ取れます。音や光から発した形而上学の果てにあるのが、また音や光だというのは、なんとも言えない皮肉を感じますね。

さて、高橋悠治さんから久しぶりにメールを頂きました。私信なので細かな内容には触れないが、音楽で人を動かそうとしなくていい、という言葉が突き刺さりました。その様な事を思っていた自分に気づかなかったからです。

今までは音楽で様々な実験をしていたが、今のぼくの作曲姿勢はすっかり伝統に回帰しています。サビつき、カビの生えた20世紀初頭の音楽にです。ルネサンス対位法を学び直し、18世紀のキルンベルガーやラインケン、マッテゾンの論文を読み、フーガを書き、対位法のパズルで遊んでいます。

五線にオタマジャクシを並べる技術をいくら磨いても、それは作曲をしているとは言えない。そう強がって言っていた時代がどことなく懐かしく感じもします。

今のぼくはとても疲れています。昨日は昼に寝て、目覚めたのが朝の5時、その後二度寝をして目が覚めたのが11時でした。新型コロナ騒動の前に酒を飲んだ友人が発熱していると知らせを受け、今はあわてて家を飛び出しました。自己隔離の為です。路銀で色々と親から言われる事は確かですが、家族の命あっての説教だと思ってます。笑

今は某所で人と出会わず、所謂「三密」からは程遠い生活をしています。しかし東京の列車をみると、東京で暮らす中で政府の司令を守るのはどうも難しそうです。

ヨーロッパとの連絡も絶えています。皆仕事どころではなく大変なのでしょう。一方で連絡が早くなった人もいますが、国によって様子が極端に異なるようです。アジアはこの先、どうなっていくのでしょう。不安と偸安の中でただ時間だけが過ぎていく、この手の退屈は拷問に近く感じます。

皆様、どうぞお体にお気をつけて、乗り切りましょう。

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